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October 8 【メモ】 フィナーレ・ウルティモとグランド・フィナーレ [メモ personal notes]

October 08, 2008 (Wednesday)

   Funny Face  の "'S Wonderful" の歌詞の、それも実際に使われた歌詞として、 

" Version sung in 'Finale Ultimo' " と題された10行があった――

FRANKIE: 'S wonderful!
   PETER: 'S marvelous―
    BOTH:  City hall's in view.
FRANKIE:  'S marriage licence.
   PETER:  'S Niag'ra Fall.
    BOTH:  'S 'appiness for two!
 DUGSIE:   You've made my life so ting-a-lish;
                I'll even overlook your Eng-a-lish.
   JIMMY:   Oh, wedding bells fill the air
                Now that I know you care.

   

  "'S Wonderful" は、使用されなかったさまざまな歌詞はさておき、Peter と Frankie がそれぞれverse と chorus (refrain) をソロで歌う場面は、この2幕のミュージカルの第1幕にある。 この"Finale Ultimo" はどこで歌われたのだろう。

   finale フィナーレは、音楽用語がだいたいそうであるようにイタリア語で、意味はファイナルと同じ「最後」「終局」だけれど、歴史的にはクラシック音楽において、 opening での盛り上げじゃなくて、楽章なり幕なりの最後での盛り上がりのために、ソロじゃなくてアンサンブル=合唱で演奏される部分らしい。モーツァルトやベートーベンが工夫したらしい。

   英語の辞書にfinale ultimo が出てこないのは、まあしょうがないのかもしれない。でもgrand finale は出てくる。――

a climactic finale (as of an opera)  〔Merriam-Webster Online <http://aolsvc.merriam-webster.aol.com/dictionary/grand%20finale>〕

    「クライマックスのフィナーレ」 。("Date: 1800" となっている)。

    グランド・フィナーレとフィナーレ・ウルティモはどう違うのだろう。同じなのだろうか。同じかな、とちょっと思ったのは、次のような記述のサイトがあるから。――

Finale Ultimo
The final finale. 〈最終的フィナーレ)

Finaletto
Rarely used as a term now, a "Finaletto" is a small finale at the end of a scene, whereas the Finale or Grand Finale comes at the very end of the show. (今日ほとんど使われない用語だが、「フィナレット」は場面の終わりの小さなフィナーレのこと。それに対してフィナーレあるいはグランド・フィナーレは歌劇の最後に来る) 〔"BMTG Glossary" Beeston Musical Theatre Group <http://www.bmtg.org.uk/glossary.php>〕

これは、なんだかイギリスのアマチュアの音楽協会らしいのですが、他にも

finale - Last song of an act, usually involving a large number of singers.(幕の最後の歌曲。通例大勢の歌手による)

finale ultimo - The final finale.(最終的フィナーレ)

grand opera - Opera which is sung from start to finish, as opposed to opera which may have spoken dialogue. 〔"Educational Resource for Orfeo ed Euridice [...] produced by the Queensland Conservatorium Griffith Universty, June 2007" Albert Herring <http://209.85.173.104/search?q=cache:RFxqxiJLxAkJ:www.griffith.edu.au/school/qcgu/about/industry_and_community/resources/doc/christoph-willibald.doc+%22finale+ultimo%22+dictionary&hl=ja&ct=clnk&cd=19&gl=jp&client=firefox-a>〕

とか。

  けれども、ヴェルディなんかは、「グランド・フィナーレ」が終劇にではなくて、 まんなか過ぎたあたりに設定されるわけです。

  だから、結論的には、「グランド・フィナーレ」はフィナーレの質量的な「クライマックス」度によるもの、 「フィナーレ・ウルティモ」は時間的な「クライマックス」、ということになるのではないかと(あくまで( ..)φメモメモです)。まあ、ふつうは time-sequence の終局で一番のクライマックスが来て閉じるので、グランド・フィナーレ=フィナーレ・ウルティモとなる確率は高いのかもしれない。

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参考URL

三澤洋史 「『アイーダ』にみる通俗性と芸術性について」 <http://mdr-project.hp.infoseek.co.jp/MDR-Seminar/MDR-Seminar-2007.04.13.html>  〔ワーグナーとの対比で論じているところが興味深かった。ワーグナーは、高橋巌的に言うなら、音楽が零的世界に近いことを知りつつも、アッチ側に一気に飛び越えるのではなくって、言葉による劇的な過程をこそ大事にしたがゆえに楽劇という言葉を大切にする形式を選んだ、というようなことで(うろおぼえ)〕

ヴェルディの通俗性② 声楽的アンサンブルとグランド・フィナーレ
 ヴェルディは、「アイーダ」までは、番号付のオペラを捨てませんでした。さらにワーグナーが早くも捨て去ってしまった、声楽的アンサンブルについては、 最後の「ファルスタッフ」までも決して捨てませんでした。すなわち同時進行しながら別々の歌詞を歌う二重唱、三重唱、四重唱、及び合唱を含んだ大規模なコ ンチェルタートと呼ばれる楽曲です。 
 ヴェルディは、むしろこれらのアンサンブルを中心にオペラを構成していきました。彼のオペラではアンサンブルを中心に場面割りをたどっていける分かりやすさがあるのです。
 たとえば、「アイーダ」第一幕の構成は、ラダメスのロマンツァ「清きアイーダ」、アムネリスとの二重唱、アイーダ登場して三重唱という風にです。
 ヴェルディは、アリアだけでなくこうした場面ごとの拍手をも許しました。

 ワーグナーが何故こうした声楽的アンサンブルを捨てたかというと、複数の歌手がそれぞれメロディーを朗々と歌って同時に別々の歌詞を言うことは、かえって聞き取りにくいし、なによりもドラマの流れがそこで止まってしまうからです。
 ワーグナーは、ヴェルディが同時にひとりひとりの想いを独白させるようなところでは、それを歌詞ではなくむしろ管弦楽が奏するライト・モチーフに語らせ ました。会話が自然に行われ、聴衆にもその意味がはっきり伝わるように、なるべく語りに近いスピードと間を与え、歌手達にメロディーを朗々と歌わせること を極力避けました。
 一方、ヴェルディは、流れが止まっても、「ここはアンサンブルに徹して音楽的な高揚感を与える」と割り切り、ドラマが進行するところと音楽的に密度が高いところとを交互に置きました。

グランド・フィナーレ
 ヴェルディは基本的にオペラの真ん中過ぎたあたりに、ソリストと合唱とによる大規模なコンチェルタートを含むグランド・フィナーレと呼ばれる部分を置き、これによってオペラのひとつのクライマックスを築きました。
 この着想を、彼はそれ以前のベルカント・オペラやマイヤベーアなどのグランド・オペラから得ましたが、新作を発表するごとにグランド・フィナーレの内容に様々なヴァリエーションを加えていきました。
 合唱指揮者としてヴェルディの様々なオペラの合唱場面に付き合ってきた私は、ヴェルディのグランド・フィナーレの多様性とその変遷とを語るだけでも、お そらく一晩の講演が出来てしまうのですが、いくつか例を挙げるだけでも私の語ることの意味がお分かりいただけると思います。

 たとえば「運命の力」第三幕の戦場の野営地では、さまざまな情景が繰り広げられています。たとえば戦場という場所のどさくさに紛れてあくどい商売をしよ うとするトラブーコと兵士達のやりとりや、母親の元を離れて寂しがる新兵達とそれをなぐさめるお姉さん達や、風紀を乱していると言ってみんなをとがめに来 るが、一同から嫌がられる僧のメリトーネなどです。さらに「ラタプラン」というほとんどアカペラで歌われる戦争ゴッコの合唱などが、悲劇的なストーリー展 開とは全く離れて、まるでNHKの「ふるさとの歌祭り」か「紅白歌合戦」のような娯楽的場面を作り出しています。
 そのため、本来陰湿な内容を持つこの「運命の力」にある種の救いをもたらしているとして評価する人もいれば、反対にそれによってドラマの焦点がぼやけてしまっていると批判する人がいます。
 しかしひとつだけ言えることは、こうした場面を通して、私たちは当時のイタリア人達の生活ぶりをかいま見ることが出来ます。それ故にヴェルディは特にイタリア人からは国民的作曲家としてあがめられ親しまれているのです。

 パリのオペラ座のためにフランス風グランド・オペラのつもりで書いた「ドン・カルロ」第三幕では、通常祝祭的で華やかに上演される合唱やバレエの場面の代わりに、なんと“異端者の処刑”という重々しい場面を描きました。
 ここで特筆するべきことは、この場面の間にドン・カルロがなだれこんできて、フランドルの使者達と共に国王にフランドル地方の圧政からの解放を訴えた り、その訴えを国王に退けられて逆上したカルロが剣を抜くと、それを制止したのが他ならぬカルロの親友ロドリーゴだったりと、「運命の力」と違って、まさ にドラマの重要な進行がコンチェルタートの真っ直中で起きるということです。

「アイーダ」のグランド・フィナーレ
 「ドン・カルロ」のグランド・フィナーレで獲得した手法を、ヴェルディは「アイーダ」でさらに発展させます。通俗性といえば、ヴェルディの全作品の全場 面中最も通俗的な第二幕第二場グランド・フィナーレで、ヴェルディは確かに「お客様は神様です」と言わんばかりにアトラクションの大サービスをします。
 でも、それだけにとらわれていると、この場面に潜む芸術性に気づかないで通り過ぎてしまいます。エチオピアとの戦いに勝って凱旋してきた戦士ラダメス は、エチオピアの捕虜達の解放を国王に願いますが、その捕虜達の中にアイーダの父親でありエチオピア国王のアモナズロが身分を隠して紛れ込んでいます。ま た国王はラダメスに自分の娘アムネリスを后に迎えるよう命令し、アイーダは絶望にうちひしがれます。
 このようにヴェルディは、華やかなスペクタクルで聴衆を楽しませながらも、重要なドラマ展開をこの場に盛り込んでいて、ドラマ的にはこのオペラ全体の折 り返し点となっています。その意味では、「アイーダ」のグランド・フィナーレは、ヴェルディにとって庶民との接点を保ちながらも自身の芸術性を盛り込ん だ、彼のオペラ作りのひとつの結論とも言えるものなのです。

神崎正英 「ベートーベン第九の歌詞と音楽(a.k.a.ベートーヴェン)交響曲9番とシラーの「歓喜によせて」」 The Web KANZAKI <http://www.kanzaki.com/music/lvb-sym9f.html>

神崎正英 「第九の歌詞の意訳(ごろあわせ)」 The Web KANZAKI <http://www.kanzaki.com/music/lvb-daiku.html> 〔向島芸者達が練習に使った「歓喜の歌」のとらの巻。下のはフォーマットが引用元とズレテいます。〕

フロイデ) 詩へ寝る(シエーネル) 月輝る(ゲッテル) 粉健(フンケン)

とホテル(トホテル) 会う末(アウスエ) 理事(リージ) 生む(ウム)

ビルベ(ヴィルベ) と(ト) 0点(レーテン) 夫追い得る(フオイエル) 取るん健(トゥルンケン)

貧無理死へ(ヒンムリッシェ) 台ん(ダイン) 入り人産む(ハイリヒトウム)



台寝(ダイネ) 津会うベル(ツアウベル) ビン出ん(ビンデン) 微出る(ヴィーデル)

バス出い(ヴァスデイ) 詣で(モウデ) 酒取れん(シュトウレン) 下駄いると(ゲタイルト)

ああ冷(アーレー) 麺支援(メンシエン) ベル出ん(ヴェルデン) 鰤うでる(ブリューデル)

暴大ん(ヴォーダイン) 残ふてる(ザンフテル) 風流げる(フリューゲル) 場いると(ヴァイルト)[・・・・・・]


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