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March 28-29 短い文 (ポーの『マージナリア』から) 付 ミュージカルの歌詞についての雑感 [歌・詩]

March 28, 2009 (Saturday)
March 29, 2009 (Sunday)

    私事ですが、このごろどういうふうにブログをまとめてトンズラしようか考えています。まとまっておらず気がかりなのは、ひとつはミュージカルの歌詞について(*)、というか、結局、歌詞について。ほとんど本人ぐらいしか覚えておらないと思うのですけれど、ハナシの元は「おおスザンナ」の歌詞の受容なのですが、いったい歌詞というのは音楽(というより歌曲)にとってどれほど重要なのか、という問題をはらんでいます。書きだしたついでに書いておくと、フォスターはヴァース+リフレイン形式を出して、その後の歌謡曲に先駆けるところあり、だとすれば、ミュージカルにおける歌詞の変奏についても示唆的なものをもったのではないか思われます(たぶん)。「おおスザンナ」の問題には、ミンストレルショーという舞台を離れて曲がひとりだちしたときに、歌詞に何が求められるか、どう理解されるか、ということが含まれていると思われます。既に書いたように、歌詞の3番だかでは話者は自分のことを "this darkie" と呼んでおり、普通には「私」=黒人という歌の物語の世界が追認されるわけですし、この歌の歌詞は一人称の物語を語っていて(まあ、その中に夢の物語も枠として入っているけれど)、だから、簡単に言うと、たいへん特殊な状況を特定の人が歌っているわけです。それを芝居ではなくて(つまりミンストレルで黒人のなりをした白人が演じるのではなくて)日常の空間でふつうの人が歌うときって、どうなるんだろう、という、たいへん素朴といえば素朴な話です。

  いっぽう、アイラ・ガーシュウィンは、実は、バラバラの歌曲の寄せ集めではなくて、ひとつのミュージカルの物語やプロットに相互に関係づけられた統一のある作詞を行なったほとんど最初の人として位置づけられています(急いで付け加えておきますが、これも既にみたように、ボツになった歌を改編してのちのミュージカルで使用するとかはしょっちゅう行なってはいますけれど、まあ、考えてみれば男女の物語というのがミュージカルであれなんであれ物語の基本だから、愛や恋の歌は再使用可能だし、だからこそ特殊な物語状況があっても他の人に歌われ、かつ共感を呼ぶわけでしょうが)。けれどもアイラ・ガーシュウィンのこの努力は、ひとつの歌の自律性、といったらいいだろうか、をヘタをすると損ないかねないかもしれないですよね。その歌がミュージカルの中で置かれたコンテキストが歌詞の意味を左右するからです。

  これらはジレンマですかね。

  で、ほんとうは今書きたいのは、このミュージカル歌詞問題ではなくて、歌詞(コトバ)と記憶という、もっと単純なことで、前置きが長くなりましたが、それについて書くためにちょっといくつか踏み固めておく必要を感じて、今回はポーの文章を引用しておきます。

 Marginalia, CCXIV.


    It is not every one who can put "a good thing" properly together, although, perhaps, when thus properly put together, every tenth person you meet with may be capable of both conceiving and appreciating it.  We cannot bring ourselves to believe that less actual ability is required in the composition of a really good "brief article," than in a fashionable novel of the usual dimensions.  The novel certainly requires what is denominated a sustained effort — but this is a matter of mere perseverance, and has but a collateral relation to talent.  On the other hand — unity of effect, a quality not easily appreciated or indeed comprehended by an ordinary mind, and a desideratum difficult of attainment, even by those who can conceive it — is indispensable in the "brief article," and not so in the common novel.  The latter, if admired at all, is admired for its detached passages, without reference to the work as a whole — or without reference to any general design — which, if it even exist in some measure, will be found to have occupied but little of the writer's attention, and cannot, from the length of the narrative, be taken in at one view, by the reader. <http://www.eapoe.org/works/misc/margd05.htm> 

    「よいもの」というのは、うまくこしらえてしまうと多くの人たちがそれを理解し、鑑賞するけれど、こしらえるのは、誰にでもできることではない。私の考えでは、本当によい「短い記事」を書くのには、ふつうの分量の流行小説を書くのと、少なくとも同程度の才能が必要だ。確かに長篇小説を書くのには、長時間の努力を必要とする――けれども、それは忍耐の問題であって、才能とは間接的関係しかもたない。一方、短い文の場合は、効果の統一ということがぜひ必要であって、それはまた通俗小説にはなくてもいいものである。そして効果の統一は誰にでも鑑賞され、また理解されるものではなくて、理解できる者にとっても実現困難な所望物である。通俗小説がもし賞賛されるとしたら、そのよさはバラバラのパッセージにあるのであって、それと本全体の関係、あるいは本の全体的意匠との関係はどうだっていい。そしてある小説にそういう意匠があったとしても、それは著者が注意を払って工夫したことではなく、また長い話なのだから、読者がそれを一目で看て取ることは不可能なのである。〔吉田健一訳をいくらかもとにした私訳〕

   ここでポーが語っているのは、「ナサニエル・ホーソーン論」などの有名な短篇小説論において、一息に読める分量でなければダメだとかいうことばと一緒に出てくる有名な「効果の統一」のはなしです。結局のところ、効果の統一や全体的意匠の看取が不能なのは、長さゆえ、ということになるようです。

  が、もちっと相対的にミニマルに考えると、第一に、人は短いものでもほんとうに「一目で看取する」 "take[n] in at one view" ということが可能なのか、疑問が生じます。一目でひとつの短篇(詩でも小説でも)を見てとることは、不可能ではないか。数行の詩だって不可能ではないか。あ、俳句くらいならできるかもしらんが。

  そうなると、記憶が介在しなければ看取は不可能なのだ、ということになります。ならないでしょうか。なりますよね。それが一つの問題。

  もうひとつは、短篇においても、バラバラのパッセージが賞賛されるのではないだろうか。いや、賞賛されることも多いのではないだろうか、ということです。歌でいうと、歌詞のひとつのフレーズが記憶にとどまり、あとはなんだかよく了解されないまま、お気に入りになる、という状況。もちろん、歌謡は音楽だから、歌詞 words と曲 musicで、曲の力は大きいのは当然ですが。いや、音楽の力が大きいからこそ、歌詞が全体的に理解されなくてもよしとされるという状況。

  もうちょっと考えてみると、記憶ということと関わるのですけれど、音楽や文学は「時間」に沿って展開するものだ、という「時間芸術」の問題があります。でも話がでかくなりすぎたので、今日は前置きのつもりだったし、ここで切ります。

 

(*) September 15 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (1)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (1)にはじまる September 26 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (1 1/3)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (1 1/3) の3分の1つづきのSeptember 27 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (1 2/3)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (1 2/3)の3分の1つづきのOctober 3, September 30 アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (2)  " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (2)のつづきの October 4 ミュージカルの歌詞というもの(上)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (3)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (3) のつづきのOctober 8, 19 『ファニー・フェース』 (1927) のプロット I ――ミュージカルの歌詞というもの(下の1)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (4)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (4)のつづきの October 20 『ファニー・フェース』 (1927) のプロット II ――ミュージカルの歌詞というもの(下の2)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (5)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (5) のつづきのOctober 21 『ファニー・フェース』 (1927) のプロット III ――ミュージカルの歌詞というもの(下の3)――アイラ・ガーシュウィンの「ス・ワンダフル」 (6)  On Musical Lyrics: " 'S Wonderful" by Ira Gershwin (6) あたりでとまって、メイポールやルネサンスフェアのほうへ話が広がってしまったのでした。ああ、そうだ。ジェンダー問題が底流としてあったのでした。

  

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参考url―(参考になんかしちゃいないんだけどw ・・・・・・個人的には絵画の時間性というのは別に未来派とかなんとかの問題でなくて、画家が伝えようとしたものが絵を見る人間に伝わるのではなくて、むしろ見る人間の内的なものが投影されざるを得ないような現代美術だか近代美術だかにおいて広くおこってくる問題だと思うのですけど。よくわかりませんが。)―

 時間芸術と空間芸術について――「視覚芸術- Wikipedia」、「ラオコオン論争 - Wikipedia

「8. 時間芸術の特徴を理解しよう」 <http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/3702/howto/howto08.html>


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コメント 2

peco

トンズラ→ズラ→殿馬

とか下らない連想ゲームに夢中になってました。てへ。
最近、仕事の関係で歌詞の語尾にやたら注意する癖が付いてしまいました。「〜さ」と歌う人が多いんだなぁって思いながら聴いていると、どの曲も同じに聴こえてきたりして、悲しいです。


by peco (2009-03-30 21:39) 

morichan の父

そ、それってどういう仕事ですか。気になる~音符
by morichan の父 (2009-06-03 13:40) 

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