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August 21 スーさんの「おおスザンナ」 "Oh! Susanna" Played by a Girl Named Sue [スザンナ周辺]

August 21, 2008 (Thursday)

   今日は昨日の暑さにはならないだろうという感じの午前9時半のサンフランシスコベイエリアからこんにちは。

  はっきりとはわかりませんがおそらく日本語より英語が得意であると思われる "soulsister55" こと Sue さんの「おおスザンナ」弾き語り(日本語)――


"Oh Susanna (American Folk Song)"  Vocal and Guitar by Susanna (1:26) posted by "soulsister55" on January 19, 2008.

    この日本語歌詞は歌われているのは聞いたことがなかったけれど、目にしたことがあった訳詞で、ほんとに歌われているとは半分信じていませんでした。前に "Oh! Susanna" の日本語歌詞についてあれこれ書いたときに、「July 13 「おおスザンナ」のあやふやな歌詞などのいろいろ」で引用させていただいた2006.07.18    ジャパンCAMPSONGネットワーク通信Blog 「オースザンナ」に引かれていた歌詞ではなかですか。

オー・スザンナ     

1.アラバマの町から バンジョーかついで
遠いあの娘の町へ 行くところ
花も嵐も踏み越えて行く 
スザンナ泣かないで 待ってておくれ
 
※ オー スザンナ 泣かないで
  
 バンジョーかついで 今 旅を行く

2.静かな夜には 夢に見た
 丘を駈けてくる お前の姿を
 はるばるやって来たと おいらが言えば
 スザンナの笑顔に 涙がひかる

※ くりかえし

3.もうすぐあの娘の町だよ ニューオリンズ
 逢えば嬉しくて気も遠くなる
 もしもあの娘に逢えないならば
 死ぬより他には 道はないさ

※ くりかえし

  ブログ主のSPUD さんは@Campers JUGBAND というジャグバンドを率いるbanjoist です(あ、いまbanjoist のつづりを確認すべく辞書を引いたら、banjo は、その前がbandore, bandora で、もとはpandora で、黒人のなまりなのね)。この歌詞はとくにボーイスカウトとかそういう流れではないのでしょうか。わかりません。

   Sue さんは日本のSuzuka にいらっしゃる方で、 "Vocal and guitar by Susanna" と説明があるように、Susanna さんです。本名が鈴鹿紗衣とかいうことはないと思います、たぶん。

  Sue という少女とタイトルに書いて、Sueという少年という曲を思い出しました。脈絡があるようなないような・・・ブログだから・・・メモ的にφ(..)メモメモ


"Johnny Cash 'A Boy Named Sue' " (1969) posted by jegir on November 28, 2006.

 "This is live at San Quentin in 1969. This is the original radio version (except no bleep) that your daddy knows!"

   モーリちゃんの父はこれを高校生ぐらいのときにラジオで聞いて、なにがおかしいのかわかりませんでした lol

  "JOHNNY CASH LYRICS - A Boy Named Sue" <http://www.azlyrics.com/lyrics/johnnycash/aboynamedsue.html>


August 21 オーストラリアのラインダンス事情―― 振り付け (Choreography) について [スザンナ周辺]

August 21, 2008 (Thursday)

    オーストラリアのPerth に在住で Tamworth で開催されるAustralian Line Dance Championship (そのMain Page)を報告したりしていらっしゃる植松しげさんの「Perth だより、、植松しげ 記4」に、「おおスザンナ」の振り付けをしたオーストラリアのダンス教師やラインダンスについて興味深く書かれているので、紹介といいますか利用させていただきたいと思います。この「記 4」は、2008年1月21日(続き)から24日ですが、後日に書き加えられた文章もあるようです。その23日のところに2月29日に追記された「Choreography 雑感」と題する一文から――

   一般の人にとって、Choreographerの存在を大きく認識させたのはマツケン・サンバⅡを振付けた真島茂樹であろう。日本から送られた2004年大晦日、紅白のビデオで見たマツケン・サンバの華やかな踊りの振り付けは、今も私の頭の中にとどまっている。
   いずれの国で行われるライン・ダンスのコンペに〔も?〕、Choreograph Sectionがある。しかし、国によって、趣が違う。オーストラリアの場合、デモするDancer2人はShirtsは白、ズボンは黒色と決まっている。振り付けの評価が踊り手の衣装によって惑わされないためであろう。また、踊る時間は短時間で打切られる。
  Asiaの国ぐにでは、ChoreographyのSectionに華やかな衣装、大勢のダンサーが時間たっぷり踊る、一種のShowである。他のダンサーとCompeteするのが苦手なので、ChoreographyのSectionで楽しく躍るのだ、と説明したくれた人がある。
  優れた振り付け師は、誰にでも踊りやすく、楽しいダンスを仕立てる。最近では、Bill LarsonとChris WatsonがImprover向けに振付けた Oh Suzannah がある。32 Count 4 Wallのダンスで楽しい。
2008年2月29日記

   モーリちゃんの父的にはビル・ラーソンとクリス・ワトソンという、「おおスザンナ」のラインダンスの振り付け師を調べていて出会ったわけですけれども、植松さんの、たいへん若々しく写真を多用しつつ適切な文章をちりばめたページに、たんに知識のみならずおおいに学ぶところあったのでした。

   植松さんのレポートにクリス・ワトソンの写真(意外と若い)もあがっているのですが、さらに調べると、年長のBill Larson のほうは "Lonestar Dance Connections" というホームページをもっていて、" My Choreography" や "My Dance Videos" というリンクで「おおスザンナ」の振り付けや自身のYouTubeのビデオにつながっています。

   また、The Beat という、ラインダンス・マガジンのコラム執筆者リストに海外からの寄稿者としてふたりが写真入りで紹介されています――"beatcolumnists2008"。それの文章を引用します――

BILL LARSON

Perth (WA)
Bill is well known to many New Zealanders, being an ex Kiwi himself.  Having brought us a little sunshine from Queensland's coast he moved to Perth, Western Australia.  It's from here that we get the news from "WAY OUT WEST".  Bill is a respected judge and is often invited to return home for the Big Linedance Competition events to be on the judging panel.

 

CHRIS WATSON

Tamworth (NSW)
Chris has become a mentor for many young dancers both in Australia and New Zealand, and brings us regular updates on happenings with "DARE 2 DANCE" from his home in Tamworth. Chris also host the big linedance events in Tamworth and line dance cruises and trips through his travel company.

 

  ビル・ワトソンはパースの人、クリス・ワトソンはタムワースの人なのでした。

  ビル・ワトソンのHPには、上述のように「おおスザンナ」へのリンクがありますが、振り付けについてはpdf.なので、重たいし、ちょっと編集して引用してしまいます(編集も容易では中田いやなかったですが)。――

OH SUZANNAH

Choreographer:          Bill Larson & Chris WatsonSeptember 2007

Song:         ‘Oh Suzannah’  by Southern Culture (136bpm)

4 Wall 32 Count Improver

Start 32 counts in from start of music – 2nd wall starts with vocals

http://www.youtube.com/watch?v=DRlMIFvmVkU

                  ________________________________________

Steps        Actual Footwork     Direction(略) Calling Suggestion(略)

Section 1    Roll Left Clap, Roll Right Double Clap

1                Step L to side with 1/4 turn L (9:00)

2                Turning ½ L, Step R back (3:00)  

3                Turning 1/4 L, Step L to side (12:00) 

4                Hold with clap

5                Step R to side with 1/4 turn R (3:00) 

6                Turning 1/2 R, Step L back (9:00)  

7                Turning 1/4 R, Step R to side (12:00) 

8                Hold with double clap

                 

                  

Section 2    FWD Touch Back Touch, Side Together Side Turn

1,2             Step L fwd, Touch R beside L with clap

3,4             Step R back, Touch L beside R with clap

5,6             Step L to side, Step / Slide R beside L

7,8             Turning 1/4 L, Step L fwd (9:00) , Scuff R fwd

                 

                  

Section 3    Touch Heel Bounce 3x, Walk /Stomp 1/2 turn L

1,2,3,4       Touch R foot frd, Tap / Bounce R heel 3x (wgt on L) Bending fwd, slap R hand side to side across R knee 4x

5,6,7,8       turning 1/2 L in a small semi circle Step / Stomp R L R L with hand claps (3:00)  

                 

                  

Section 4     Shuffle Shuffle, Step Pivot Step Touch

1&2           Shuffle fwd: Stepping R L R

3&4           Shuffle fwd: Stepping L R L

5,6             Step R fwd, Pivot 1/2 turn L (9:00 weight on L)

7-8            Step R fwd, Touch L beside R

 


   ま、こんなもんですわ。R=right(右), L=left(左), wgt=weight(体重), fwd=forward(前), back(後), scuff(ひきずり歩き), stomp(足踏み), clap(拍手).

     ふたりの「おおスザンナ」振り付けは2007年夏に発表されたようで、ごく最近のものなのでした。なるほどなあ。そこがインターネットの怖さですかな(どこが)。

    さて、植松しげさんは、70歳を過ぎたかたとお見受けしたのでが、ほんとに若々しいページで感服したのでした。で、1月21日のTamworth の続きの記事のなかに、写真とコメントが書かれているなかで、下の写真を見てすぐにモーリちゃんの父は、おおスザンナ、と思ったのでした。――

tam65_photo_by_UematsuShige.jpg

写真出典:植松しげさんの「Perth だより http://www2.nns.ne.jp/pri/tellson/shige4.html

「オーストラリアの都市銀行、WestpacTamworth支店の行員も12回、銀行前でライン・ダンスをする。」 というのがキャプションです。

  そして、その横にもう1枚写真があり、「通りかかったとき、オースザンナを踊っていた。このラインに加わって踊る人もいる。かくなる私もそうである。」と書かれているのでした。これはゾウの鼻のポーズというか、フトモモをパシパシ叩くしぐさの中途ですね。

  1日2回「おおスザンナ」をこんなふうに踊りつづけてておるのでしょうか、行員さんたちは。びっけ。

 

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Australian Line Dance Championship Main Page <http://www.linedanceaustralia.com.au/ALDC_Forms/ALDC_MainPage.asp>

「Perth だより、、植松しげ 記4」 <http://www2.nns.ne.jp/pri/tellson/shige4.html> [2008年1月21日(続き)~24日]

「Perth だより、、植松しげ 記5」 <http://www2.nns.ne.jp/pri/tellson/shige5.html>

植松シゲさんのタムワース ラインダンス チャンピオンシップシップス 2008 レポート 」 <http://www2.nns.ne.jp/pri/tellson/shige1.html>

 


August 22 ハリエットとアリスとガートルード――昔のサンフランシスコのユダヤ人の少女時代 (2)、またはパリのアメリカ娘たち Harriet, Alice, and Gertrude: A Jewish Girlhood in Old San Francisco (2); or, American Girls in Paris [本・読み物 reading books]

August 22, 2008 (Friday)

 

August 19 昔のサンフランシスコのユダヤ人の少女時代 (1) A Jewish Girlhood in Old San Francisco

の続きです。

     Harriet Lane Levy (1867 - 1950)

      Alice B. Toklas (1877 - 1967)

      Gertrude Stein (1874 - 1946)

    hag という並びに意味はありません。Gertrude Stein は美術の教科書にピカソによる肖像画が載っていたり、あるいは第一次大戦後にErnest Hemingway とか the lost generation の名付け親になったりして、おばちゃんというイメジが強いですが、パリに渡ったのは20代のときでした。そのスタインのいるパリへ、前述のように、スタインの義姉のSarah がオファレルのご近所出身だったという縁で、Harriet Levy とAlice B. Toklas は1907年9月、それぞれ30代の終わりと20代の終わりに、やってきて、expatriate 国籍離脱型の生活を始めます。

   1907年9月8日、パリに着いたその日にアリスを連れてスタインたちを訪問します。 と前回書いて、とまったのはウィキペディアの記事にひっかかったからでした。で、ちょっとWikipedia を題材に英語の勉強をすることにしましたw

   日本語Wikipedia  「ガートルード・スタイン」

   英語Wikipedia "Gertrude Stein" 

    いま自分の記事を読み直すと、 「日本語版ウィキペディアの「ガートルード・スタイン」はおおむね英語版の訳でしかないみたいですが、よくわからないところがあり、 別の記事で検討します。」と書いていました。細かく見ると、構成が変更されているようで、おそらく時間に合わせたために元の英語版と前後しているところがあります(それは「訳」とうたっていないのだからとりあえず文句はないです)。あと、当然ながら日本語訳の情報が付け加わっています。

  全体の検討などとてもできませんので、アリスとハリエットとガートルード・スタインとの関わりのところだけ、それも分割して検討します(とにかくむつかしいんですよ)。

アリス・B・トクラス、1907年

スタインは終生のパートナーであるアリス・B・トクラスと1907年9月8日に出会った。その日はアリスがパリに出てきた最初の日であり、サラとミカエルの部屋でのことであった[40]。スタインと会った日にアリスは次の様に書いた。

彼女はトスカナの太陽に焼かれてその暖かい茶色の髪に金色に光るものがあり、琥珀色の概観であった。彼女は暖かい茶色のコーデュロイ・スーツを着 ていた。彼女は大きくて丸い珊瑚のブローチを着け、彼女が話すときは口数が少ないが笑うときは大いに笑った。私は彼女の声がそのブローチから出ているよう に思えた。他の誰の声にも似ていず、深く、豊かで、ヴェルヴェットのようで、偉大なコントラルトで、2つの声が有るように聞こえた[41][42]

その後直ぐに、スタインはアリスをパブロ・ピカソのスタディオでピカソに紹介した。そこではピカソが『アヴィニョンの女達』Les Demoiselles d'Avignonに取り組んでいた<refMellow, 1984, at 109-14></ref>。『アヴィニョンの女達』は「レオがピカソに対する支援を終わらせた時」となった絵であった[43]

1908年、スタイン達はイタリアのフィエゾレで夏を過ごし、アリスは、アメリカからの旅仲間で当時の同居人でもあったハリエット・レイン・リービの所に滞在した[44]。その夏、スタインは兄のマイケル・スタイン夫婦とその息子アランおよびレオと近くの別荘に滞在した[45]。スタインとアリスのこの夏は、フィレンツェのサンマルコ広場で撮った写真に収められている[46]

アリスは1907年にハリエットと共に渡航してきて、アリスがハリエットとの住まいの環境を整備していた。当時書かれた描写では、スタインが多くの 手紙を書いていることやビクトリア様式の繊細さなど複雑な事項をユーモアを交えて話し、アリスの住環境整備からハリエットを解放しようとした[47]『ハリエット』の中で、スタインは夏にハリエットがいない計画を考え、続いて冬にもハリエットがいない計画を考えた。

彼女は夏の計画はまだ無いと言った。彼女が夏の計画を持っているかについて誰も興味が無かった。それはこのことの完全な履歴ではない。誰かは彼女 が夏の計画を持っていないこのことに興味を持っている。彼女が夏の計画を持っていないことに興味が無い者は、彼女が次の冬の計画を持っていないことに興味 がある。彼女は夏の計画を立てていなかったし、次の冬の計画も作っていなかった。夏の終わりになって、誰かが冬の計画があるかを尋ねたら彼女は何も答えないだろう[48]

 

元の英語の記事――

Alice B. Toklas, 1907-1946

Stein met her lifelong partner, Alice B. Toklas[22] [5], on September 8, 1907 on Alice's first day in Paris, at Sarah and Michael Stein's apartment. (Mellow, 1974, at 107) On meeting Stein, Toklas wrote:

She was a golden brown presence, burned by the Tuscan sun and with a golden glint in her warm brown hair. She was dressed in a warm brown corduroy suit. She wore a large round coral brooch and when she talked, very little, or laughed, a good deal, I thought her voice came from this brooch. It was unlike anyone else's voice--deep, full, velvety, like a great contralto's, like two voices.[23])

Shortly thereafter, Gertrude introduced Alice to Pablo Picasso at his studio, where he was at work on Les Demoiselles d'Avignon. Les Demoiselles d'Avignon was a painting that "marked the beginning of the end of Leo's support for Picasso."[24]

In 1908, they summered in Fiesole, Italy, Alice staying with Harriet Lane Levy, her companion on her trip from the United States, and her housemate until Alice moved in with Gertrude and Leo in 1910. That summer, Gertrude stayed with Michael & Sarah Stein, their son Allan, and Leo in a nearby villa. (Ibid.) Gertrude and Alice's summer of 1908 is memorialized in images of the two of them[6] [7] in Venice, at the piazza in front of Saint Mark's.[25]

Alice arrived in 1907 with Harriet Levy, with Alice maintaining living arrangements with Harriet until Alice moved to 27 Rue de Fleurus in 1910. In a portrait written at the time, Gertrude humorously discussed the complex efforts, involving much letter writing and Victorian niceties, to extricate Harriet from Alice's living arrangements.[26] In "Harriet", Gertrude considers Harriet's nonexistent plans for the summer, following her nonexistent plans for the winter:

She said she did not have any plans for the summer. No one was interested in this thing in whether she had any plans for the summer. That is not the complete history of this thing, some were interested in this thing in her not having any plans for the summer..... Some who were not interested in her not having made plans for the summer were interested in her not having made plans for the following winter. She had not made plans for the summer and she had not made plans for the following winter.... There was then coming to be the end of the summer and she was then not answering anything when any one asked her what were her plans for the winter.[27]

 

   では、 まず注釈的に書きます。「サラとミカエルの部屋」となっているのはリンクをクリックすると "Apartment of Michael and Sarah Stein, 58 rue Madame, Paris, 1907" という、画家のマチスとマイケル・スタイン一家の写真のあるページにつながりますが、apartment はフランス風なアパルトマンというか、アパートです。一部屋を指しているのではない。ちなみにこの Rue Madame の家は、ルター派の教会の建物だったのを改築したものだそうです(この情報は920 O'Farrell Street のIntroduction xii)。ミカエルは前後ではちゃんとマイケルになっています。

  最初の段落の ",on September 8, 1907 on Alice's first day in Paris,"  という英語は、モーリちゃんの父の感覚では、awkward です。ふたつめのon の前にコンマがないのは、ひとつながりという息の感じなのでしょうけど、on をこんなふうにふたつ重ねること自体が書き言葉としては情報未整理で不自然だと思います(いいすぎかも)。しかし、先走って言えば、4段落目の"Alice arrive in 1907 with Harriet Levy, with Alice maintaining living arrangements with Harriet" のところも with が重なってconfusing だと思うのです。 少なくとも整理されたわかりやすい文章とは言い難い。(こういうのを自分のことはタナにあげて書いていますけれど、モーリちゃんの父的には、ブログでは、もっと推敲すれば読みやすくなることはわかりながらも、それこそ息を活かそうとして、論理を犠牲にしているのです(うそうそ)。あ、先走ったついでに4段落目の内容についてちょっと書いておくと、訳は「住まいの環境を整備していた」とか「アリスの住環境整備からハリエットを解放しようとした」いう意味のわからない日本語になっていますけれど、これは原文の英語が "living arrangements"という、履歴書とか社会学とかでよく使われるようなニュートラルな言葉を使っているからわかりにくいので、簡単にいえばアリスとハリエットは同棲していた、そういうアリスの生活からガートルードはハリエットを追い払ったということです。もちろん自分がアリスと暮らすために。extricate は確かに「解放する」とか辞書に書いてあります。反語であるにしても、このことはliving arrangements を支えているのはハリエットのほうだということです。living arrangements というのは、一般的には親と同居しているとか、二世帯同居とか、ひとりぐらしとか、そういう生活形態のことを言うと思いますけれど、経済的な分担がどうなっているのかという含みがたいていあると思います。そういう関係でみれば、ハリエットが二人の生活を支えているので、そこから「解放」というイヤミでしょう。2人を引き離すべく、手紙を(たぶんハリエットに)たくさん書いたり「複雑な努力」をしたということです。1908年の夏にガートルード・スタインはアリスに、ふたりで暮らそうとプロポーズしています(求婚といってもよい。wife とアリスのことをスタインは言っている)。アリスは躊躇しますが、ますますハリエットと過ごす時間が減っていく。孤独なハリエットは結局1910年にアメリカに帰ります。ガートルードの勝利。

  話が別のところで進みすぎました。この4段落目の英語は、「1907年にアリスはハリエットと一緒に到着した」という情報に、いわゆる付帯状況のwith というやつを使って、到着後の二人の生活が記述され、さらにそのなかの従属節 "until Alice moved to 27 Rue de Fleurus in 1910" で、その二人の生活の終わりまで記述されているわけです。主節の動詞は arrived なのだから、文としてはこの動詞を中心に構成されるべきですが、時間的にも内容的にも進んでしまっている。それに「1910年にアリスが引っ越すまで」、という情報は、ひとつ前の段落の "until Alice moved in with Gertrude and Leo in 1910" と同じです。つまり 27 Rue de Fleurus がGertrude Steinの住まいだということが、 "until Alice moved to 27 Rue de Fleurus in 1910" と"until Alice moved in with Gertrude and Leo in 1910"で相補的にわかることですが、わざわざ反復しなくたって書きようはあるでしょう。言葉を反復すること、代名詞に置き換えないで名詞を繰り返したり、同様の言い回しを畳みかけたり、というのはガートルード・スタイン自身の文章の特徴のひとつですけど、難解で知られるスタインの文章は、透明性というのとは違うものを志向しているわけで、それをブログと違って透明性こそが大切な事典的記事でなぞってどうする、という感じです(半分好意的に半分反語的に書けば)。

  あ、前半だけでやめようと思ったのに後半へ進んでしまいました。戻ります。

   最初の段落の2行目ぐらいの"On meeting Stein, Toklas wrote:" について。訳「スタインと会った日にアリスは次の様に書いた。」となっていますが、on を「時」の前置詞と取っているようです。 When she met Stein とか As soon as she met Stein みたいに。でもここは「~について」という題材を示すon でしょう。次の引用は有名な『アリス・B・トクラスの自伝』からです。これはアリスの自伝というかたちでスタイン自身が書いたものですから、それを知っている人にとっても知らない人にとっても、このような引用と記述のしかたは複雑で不透明です。つまり、アリスの目に映った最初の出会いのときのスタインを、見られていたスタインが見ていたアリスとして書いている、そこにある欲望というか欲求というか願望というかはなんなんだろう。よくわからない。それともアリスがスタインに語ったことをスタインは書いたのでしょうか。そうであるなら(そんなことが調べられるものなら)そのように注釈した上で引用してもらいたい。

   引用の最初のセンテンスは "She was a golden brown presence, burned by the Tuscan sun and with a golden glint in her warm brown hair. " ですが、主節の "She was a golden brown presence" を "burned by the Tuscan sun" と "with a golden glint in her warm brown hair" がand でつながれた並列された「理由」として修飾しているかたちです。でも追加的に、文をあらためて "She was dressed in a warm brown corduroy suit. " も brown presence の補足的な理由としてくっついています。もちろん衣服じゃなくて肌や髪といった身体のほうが主ですが、そこにおまけに服装もbrown だったので 金褐色の現前(といまふうな日本語ではなるのでしょうか)、金褐色の存在、もっといえば色彩的存在としてアリスには印象付けられた、ということです。

   3番目の段落。ピカソの『アヴィニョンの娘たち』はバルセロナのアビニョン街の娼婦たちを描いたもので、キュビスムの最初の作品とされているものですが、レオ・スタインが嫌ったのは倫理的な問題ではなくて前衛的すぎることだったのでしょうか。この記事はガートルード・スタインについてのものなのに、なぜレオ・スタインとピカソの関係の情報が不明確なままに挿入されねばならないのでしょうか。(書き加えたい気持ちはわかるし、ヒトのことは言えませんが)。しかし・・・・・・わざわざpedantic に研究書を典拠にしないと言えないようなことなら言わなければよい。"marked the beginning of the end of Leo's support for Picasso."の引用元は Mellow という人の研究書です。注を見ると、そのひとつ前の23番のスタイン(アリス)の引用もMellow からの孫引きとなっていることがわかりました。なんだよそれ。

  調べてみると、このMellow, James R. Charmed Circle: Gertrude Stein & Company. New York, Washington: Praeger Publishers, 1974. という本はGoogle ブック検索で読めますね。living arrangements というフレーズがある一節も見つかりました <http://books.google.co.jp/books?id=2CDJkDE8aZ0C&pg=PA144&lpg=PA144&dq=Mellow+%E3%80%80living+arrangements+Charmed+Circle:+Gertrude+Stein&source=web&ots=43skmZtjLn&sig=UZfemVU3m2qyLBwDh7B5qHCdeqY&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result>――

Now that Alice was spending much of her time at the rue de Fleurus, her living arrangements with Harriet were becoming complicated and bothersome.  She and Harriet, after their first summer in Italy, had taken a small apartment at 75, rue Notre Dame des Champs.  It consisted of four sunny rooms and a kitchen, and they furnished it in the Stein manner with items of Renaissance furniture picked up in Florence.  (p. 144: emphasis added)

    アリスはいまやガートルードの家ですごす時間が多くなっていたのだから、ハリエットとの同居生活は複雑で厄介なものになってきた。みたいな感じでしょうか。

  あ、また脱線。そのMellow の言葉らしい"marked the beginning of the end of Leo's support for Picasso" ですが、これも修辞的な不透明な表現というか・・・・・・"the beginning of the end" は常套句で、直訳すれば「終わりの始まり」、中国日本的な伝統的修辞でいうと「桐一葉」(「桐一葉落ちて天下の秋を知る」)、ものごとの終局の予兆となるようなしるしのことです。「『アヴィニョンの女達』は「レオがピカソに対する支援を終わらせた時」となった絵であった[43]。」 モーリちゃんの父の感覚だと、こんな文は引用してはだめだ。日本語の訳者はお疲れさん、ということだけれど、訳さなければならないというきまりはないのだろうから(知りません。著作権とかがウィキペディア内であるのかとか。)、こんなもともとわけがわからない英語をわけがわかる日本語にするのもわけがわからない日本語にするのも有害だと思うのですが。

  スタイン自身の文章とか、よう訳せんです。"deep, full, velvety, like a great contralto's, like two voices" のところとか、列挙されている言葉のあいだに意味上のつながりがあるのかないのかわからない。どちらにも読める感じ。金関寿夫さんの訳をウィキペディアの訳者は使っているのかしら。以下私訳。

 スタインは生涯の伴侶となるアリス・B・トクラスと1907年9月8日、アリスがパリに来た初日に、セイラ・スタインとマイケル・スタイン夫妻のアパートで顔を合わせた。ガートルード・スタインとの出会いについて、アリス・B・トクラスはこう書いている――
 彼女は金褐色としてそこに存在していた。肌はトスカーナの太陽で焼け、暖かい褐色の髪はきらきら金色に光っている。暖かい褐色のコール天の上下揃いの服を着ている。大きなまるいサンゴのブローチを身に付けていて、彼女が、話す――ほんのすこしだけ――、あるいは笑う――おおいに――とき、その声はブローチから出てくると私は思った。それは他のだれの声にも似ていない声――深く、豊かで、ビロードのようになめらか、偉大なコントラルト歌手に似て、ふたつ声があるようだった。
 それからまもなく、スタインはアリス・B・トクラスを、『アヴィニヨンの娘たち』を創作中のパブロ・ピカソのアトリエに連れていき、ふたりを引き合わせた。『アヴィニヨンの娘たち』は、「ピカソに対するレオの援助の終わりの始まりとなった」絵だった。

  以上2段落まで。

  また同じ画像を貼ります。1909年の夏、ヨーロッパ到着2年の写真です。スタインたち(マイケル・スタイン一家も)は毎年のようにイタリアのフィエゾーレに避暑に出かけていたようです。Wikipedia にあるように1908年の夏のフィエゾーレではアリスとハリエットはふたりでスタインたちとは別の宿に泊まるのですが、1909年はどうだったのでしょう。1908年の夏すでにガートルード・スタインはアリスに恋していて、ふたりのツーショットも残っています(それを下に貼ります)。

HarrietLevy&AliceToklas,Fiesole,Italy1909.jpg

Harriet Lane Levy (左)と Alice B. Toklas (右) 1909 Fiesole

Stein&Alice_1908_1014880.jpg

Alice (左)と Gertrude Stein (右)  1908 Venice

 

日本語版ウィキペディアより写真のリンクをだいたんに――

スナップショット

 

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年とかまちがいもあるけれどガートルード・スタインとアリス・B・トクラスの生活について― <http://archive.salon.com/mwt/feature/1999/11/18/alice/index.html>

    有名な(?) な "As a Wife Has a Cow: A Love Story" はThe Literature of Lesbianism: A Historical Anthology from Ariosto to Stonewall. Ed. Terry Castle (Columbia UP, 2003) のようなアンソロジーにも収められていますが、sexual なものを歌ったものと考えられておるようです。ここで、プライヴェトには wife はアリスでありんす。真剣に読むと頭が痛くなるので、とりあえずガートルード・スタインの文章の一つの例としてちらりと見ていただければと。――

 "As a Wife Has a Cow: A Love Story"    by Gertrude Stein

Nearly all of it to be as a wife has a cow, a love story.   All of it to be as a wife has a cow, all of it to be as a wife has a cow, a love story.

As to be all of it as to be a wife as a wife has a cow, a love story, all of it as to be all of it as a wife all of it as to be as a wife has a cow a love story, all of it as a wife has a cow as a wife has a cow a love story.

Has made, as it has made as it has made, has made has to be as a wife has a cow, a love story.  Has made as to be as a wife has a cow a love story.   As a wife has a cow, as a wife has a cow, a love story. Has to be as a wife has a cow a love story.  Has made as to be as a wife has a cow a love story.

When he can, and for that when he can, for that.   When he can and for that when he can.  For that.  When he can.  For that when he can.  For that.   And when he can and for that.  Or that, and when he can.  For that and when he can.

And to in six and another.  And to and in and six and another.  And to and in and six and another.   And to in six and and to and in and six and another. And to and in and six and another.  And to and six and in and another and and to and six and another and and to and in and six and and to and six and in and another.

In came in there, came in there come out of there.  In came in come out of there.  Come out there in came in there.  Come out of there and in and come out of there.   Came in there, come out of there.

Feeling or for it, as feeling or for it, came in or come in, or come out of there or feeling as feeling or feeling as for it.

As a wife has a cow.

Came in and come out.

As a wife has a cow a loves tory.

As a love story, as a wife has a cow, a love story.

Not and now, now and not, not and now, by and by not and now, as not, as soon as not not and now, now as soon now now as soon, now as soon as soon as now. Just as soon just now just now just as soon just as soon as now.  Just as soon as now.

And in that, as and in that, in that and and in that, so that, so that and in that, and in that and so that and as for that and as for that and that.  In that.  In that and and for that as for that and in that.   Just as soon and in that.  In that as that and just as soon.   Just as soon as that.

Even now, now and even now and now and even now.  Not as even now, therefor, even now and therefor, therefor and even now and even now and therefor even now.  So not to and moreover and even now and therefor and moreover and even now and so and even now and therefor even now.

Do they as they do so.  And do they do so.

We feel we feel.   We feel or if we feel if we feel or if we feel.  We feel or if we feel.   As it is made made a day made a day or two made a day, as it is made a day or two, as it is made a day.   Made a day.  Made a day.  Not away a day.  By day.  As it is made a day.

On the fifteenth of October as they say, said anyway, what is it as they expect, as they expect it or as they expected it, as they expect it and as they expected it, expect it or for it, expected it and it is expected of it.  As they say said anyway.   What is it as they expect for it, what is it and it is as they expect of it.  What is it.  What is it the fifteenth of October as they say as they expect or as they expected as they expect for it.  What is it as they say the fifteenth of October as they say and as expected of it, the fifteenth of October as they say, what is it as expected of it.  What is it and the fifteenth of October as they say and expected of it.

And prepare and prepare so prepare to prepare and prepare to prepare and prepare so as to prepare, so to prepare and prepare to prepare to prepare for and to prepare for it to prepare, to prepare for it, in preparation, as preparation in preparation by preparation.  They will be too busy afterwards to prepare.   As preparation prepare, to prepare, as to preparation and to prepare.  Out there.

Have it as having having it as happening, happening to have it as having, having to have it as happening.  Happening and have it as happening and having it happen as happening and having to have it happen as happening, and my wife has a cow as now, my wife having a cow as now, my wife having a cow as now and having a cow as now and having a cow and having a cow now, my wife has a cow and now.  My wife has a cow.

[Published in Paris in 1926 with lithographic illustrations by Juan Gris]←表紙

 

Juan Gris (1887-1927) のアルバム(しかしタイトルがない)

  見つかったらリンクします。

 


August 22 おおスイート・カウボーイなおおスザンナ Oh! Susanna as Oh Sweet Cowboy [スザンナ周辺]

August 22, 2008 (Friday)

    振付師ビル・ラーソンとクリス・ワトソンによる「おおスザンナ」のラインダンスが、地元のオーストラリア、そして地理的に近いマレーシアあたりでは昨年から爆発的に流行して、オーストラリアの銀行員たちが全員で日に2回ラインダンスを通りで踊る、その曲にも使われていることがわかった今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか(ちょっとでだしを変えてみた)

  "Oh Sweet Cowboy" と題しておおスザンナのラインダンスの映像がYouTube にあります。今日はStacey Barnett というアメリカの女性振付師による「おおスザンナ」のラインダンスの紹介です(ちょっと文体変えてみました)


"Oh Sweet Cowboy" (2:57) posted by linedqueen (Canada)


    投稿者の"linedqueen" (lined という受け身の動詞じゃなくて lined(ance) だと思いますが、どうでもいいですね)ことWinnie さんはオンタリオ州トロントにお住まいの、ご自身もline dance のchoreographer で instructor です。くまのプーさんのウィニー・ザ・プーにひっかけた Dancepooh という名のホームページをもっています。そこのプロフィールとかを見ると、Chinese Canadian で、もとは太極拳を10年以上教えていて、そのあとでラインダンスの道に入ったようです(いまもtai chi 教えています――華 人 諮 詢 社 區 服 務 處 主 辦
楊家太極拳班――)。漢字の名前は余瑞心。

 

モーリちゃんがパソコン変われ、と要求するので、明日へつづく~


August 23 おおスイート・カウボーイなおおスザンナ(つづき) Oh! Susanna as Oh Sweet Cowboy [スザンナ周辺]

August 23, 2008 (Saturday)

 

August 22 おおスイート・カウボーイなおおスザンナ Oh! Susanna as Oh Sweet Cowboy

の続きです。

  ということで、カナダの linedqueenさんは自身もダンス教師ですので、情報がいろいろなかたちで示されています。

  まず、ビデオの冒頭に、 "Oh Sweet Cowboy / Choreographed by / Stacey Barnett / (Mar/06) / 32 count, 4 wall, / beginne/intermediate line / dance" と振り付けについて書かれており、次の画面と映像最後の画面では "Danced & / walk through by / Winnie Yu @ / Summer Class / www.dancepooh.com" と、自身の教室のビデオがあることが書かれています。そして、YouTube のページの映像横の説明には、"Step Script" のページ情報も含めて書かれています。――

32 count, 4 wall, beginner/intermediate line dance
Choreographed by Stacey Barnett (Mar/06)
Music:Oh, Susanna by Yamboo
Step Script:
http://www.yipee.per.sg/DisplayStep.a...
Danced & walk through by Winnie Yu @ summer class 

  この、Stacey Barnett さんがどういう人なのか、同姓同名でミスなんたらとかセールスウーマンとかいろいろいて調べがつかないのですが、この一曲ともう一曲の振り付け師として出てくる情報では、ひとつは単にUSAとしている("Oh Sweet Cowboy")のとONとしている("DODEE DAVIS'S WORLD DANCE INSTRUCTION SURVEY JUNE 2008")のとありました。モーリちゃんの父的にはたぶん後者のオンタリオが正しいのではないかと思います(カンです)。

  さて、それはそれとして、このYamboo のものとされる曲なのですけれど、え゛、Rednexじゃないの、これ?? というのがモーリちゃんの父の耳が語る声でした。前にRednex の「おおスザンナ」について書いたとき(August 17 レッド・ネックスの「おおスザンナ」とウェスタン Rednex, "Oh Suzanna" and the Western)に書いたように、でだしは "I come from Alabama with my banjo on my knee.  I'm looking for sweet cowboys who can sing this song with me." (わたしゃアラバマからバンジョーひざに、この歌一緒に歌ってくれるかっこいいカウボーイたちを探しているのです)と歌っているのですが、そのスイート・カウボーイじゃないのでしょうか? 

    YouTubeを検索しても "Oh Sweet Cowboy" でまともにヒットするのはこのlinedqueenさん投稿のラインダンスだけで、しかたがないからゆるく "sweet cowboy" にして検索すると、 Spain の "vanep80" さん投稿の "SWEET COWBOY" がヒットします。――


"SWEET COWBOY (Concurso Lucken 2008)" posted by vanep80 on March 15, 2008

  曲名やプレイヤー名は書いていないのですが、これもRednexではないのでしょうか。

  あとは首都ワシントンのDC. Cowboys という集団(どこが sweet なんじゃい)とか――


"DC Pride Parade 2008 dancing DC Cowboys" (0:17) posted by Poltguy on July 14, 2008

   あるいは、やっぱりアメリカンギャルが弾ける "Save a Horse Ride a Cowboy" とか――


"Save a Horse Ride a Cowboy - Big & Rich" (3:34) posted by RaYlOvEsVbAll on February 4, 2008

    で、600以上あるのを全部見る気になりませんでしたw

    とりあえず確認用に並べて貼っておきます。まず振り付けがStacey Barnett、曲がYamboo とされるラインダンス――


"Oh Sweet Cowboy ( Dance & walk through)" (2:57) posted by linedqueen on August 5, 2008

次のは、貼ったことがなかったですが、マレーシアのchoreographer, line-dance instructor のLeo Boomen さんの"OH SUZANNAH Line Dance"。振り付けはオーストラリアンですけど、"Choreographed by Bill Larson & Chris Watson / 32 counts, 4 walls, easy intermediate line dance / Music: Oh Suzannah by Rednex " と曲はRednex として記されています。――


"OH SUZANNAH Line Dance" posted by Leoboomen on December 27, 2007

   前に貼った、アメリカの小雪と蛭子さん(ちがうって)の、おそらくラーソン、ワトソンのページの情報を律儀に記して、音楽 Souther Culture on the Skids としていたふたりラインダンス――


"Oh Suzannah 5/5" (2:31) posted by LPVn5678 on May 6, 2008

   そしてRednex の "Oh Suzanna" ――


"Rednex - Oh Suzanna" (3:32) posted by Baarerboy on August 16, 2008

  Yamboo って、これも以前に

July 13 「おおスザンナ」のあやふやな歌詞などのいろいろ

で引用した中に出てきていてEternal Music -blog-の 「2006.10.24  Mapouka -オカマdeマプーカ- / Yamboo」でeternal musicさんは次のように紹介されていたのでした。――

マプーカ マプーカ マプーカ~♪
チャカチャカチャカチャカラカ~♪
ラテン風のダンスポップのこの曲
歌うのは Yamboo という女性二人組です
この曲は2005年にリリースされた曲ですが
このシングルで 10枚目のリリースとなるようです

ルーマニアとユーゴスラビアのハーフ Silviato と
ベルギー生まれのアフリカ人 Gisele で構成されています
でも 昔は3人だったんじゃないのかな・・・?

曲としては最初に書いたとおりで ラテン風ダンスポップで メロディから何からキャッチーです
元々この曲 タイのクラブでヘビーローテーションされていたらしいのですね
邦題が「オカマdeマプーカ」になっているのは サビの部分が
「オカマー イェー」に聞こえるがために そうなったようです
あと 某ラジオのオカマのコーナーで使われていたらしいですね(笑)

で そんな彼女たちですが 11月1日に日本でデビューアルバムがリリースされます
リードトラックはもちろんMapoukaなのですが 他にもいいネタは多いので 一部を紹介

Oh Suzanna
おそらく誰もが聞いたことあるでしょう
「私はアラバマからバンジョー肩に~ 遥かなルイジアナまで行くのです♪」
「オースザンナ」のダンス・カヴァーです
Rednexの曲のようなポップな仕上がりで とてもキャッチーです

  このアルバムの2曲目が "Oh Suzanna" なのでした。Rednexとくりそつなのでしょうか・・・・・・。なんかどっちも「汚れ系」といううわさも(意味わからんわい)。

   しかしYouTubeにYamboo の「おおスザンナ」は見つからず、なんとか音源で見つかったのは Yamboo: Oh Suzanna (club dance mix) というmp3 の断片でした。なんじゃこりゃ(このページからリンク)。 <http://www.juno.co.uk/miniflashplayer/SF225990-01-01-18.mp3/> (1:00)。野郎の声しかせんがな。しかもYamboo の「おおスザンナ」にはいろいろヴァージョンがあるようなのでした。

つづく~


August 23 ラインダンスとは何ぞ――おおスイート・カウボーイなおおスザンナ(またつづき) What Is Line Dancing: Oh! Susanna as Oh Sweet Cowboy [スザンナ周辺]

August 23, 2008 (Saturday)

   Yamboo と Southern Culture on the Skids と Rednex の音楽についてはわけがわからないのでおいておきます(ただ、出回っているラインダンスの音楽としてはどれもRednex ではないかとモーリちゃんの父には思われてしかたがありません。

  さて、楊家太極拳班のtai chee (ここで、楊家秘伝太極拳に関心がおありの方は、こちらを熟読すべき、以下は読んでいる場合ではない)の先生でもあるカナダの余瑞心 Winnie the Pooh 先生は、ラインダンスについて、おそらく(失礼)自分の言葉で説明しておられる。――

What Is Line Dancing?

Line Dancing is the 2nd most popular extra curricular activity in the World, using all rhythms of music. Originally, the most popular music used for line dancing is country music, now there are thousands of dances for Latin, soul and funk songs, etc. Line dancing is healthy for body and mind, it makes an hour fly by without any stress, and you can learn new steps and make new friends while staying fit. It is easy-to-follow, fun-to-do, fun-to-learn, and does not require a partner.

Line Dance is a formation dance where a group of people stands in a line or in lines, and they all execute the same dance moves.  In a smaller group there may be only one line, but usually there are several parallel lines, one behind the other.  In this parallel lines formation the dancers dance in a synchronized manner, but independently of each other. There are usually no moves that require any interaction between the dancers.

Line Dance is a choreographed style of dancing.  That means, when you step out a line dance, you are following a sequence of steps that have been conceived by the choreographer or choreographers. Remembering the step sequences is actually more important than trying to learn a particular dance - while dances come into popularity and then vanish into oblivion, the step sequences are eternal - at least as eternal as line dancing.  Progressing from novice to beginner to intermediate and finally to advanced is really a matter of learning more basic steps and increasing complex step sequences and integrating them together.

 

    以下、概略訳、といいながらほぼ全訳。― 「ラインダンスとは何ぞ?」  ラインダンスは、世界で2番目に人気のある課外活動で、あらゆるリズムの音楽を使うものです。もともとは、ラインダンスの一番人気の音楽はカントリー音楽でしたが、いまはラテン、ソウル、ファンクなどなどの曲に対する何千というダンスがあります。ラインダンスは体と心に健全で、なんらストレスなしに時間は飛翔、かっこよく[?]新しいステップを学び新しい友達をつくることができます。簡単にわかり、簡単にでき、簡単にまなべ、パートナーを必要としません。ラインダンスは、集団がひとつのライン、あるいは複数のラインに位置するフォーメーションダンスのひとつで、全員が同じダンスの動きをします。小さい集団の場合はラインが一つということもありますが、たいていは前後に平行のラインがいくつかできます。この平行のライン・フォーメーションで、ダンサーはシンクロナイズされたかたちでダンスを踊るわけですが、互いに個別に踊るのです。ダンサー相互が関わりあうような動きはふつうはありません。ラインダンスは振り付けられた様式のダンスです。どういうことかというと、ラインダンスのステップを踏むとき、振付師(choreographer, あるいは複数のchoreographers)が前もって考えたステップのシークウェンスに従うということです。ステップのシークウェンスを覚えることが、あるひとつのダンスを学ぶことより実際には重要です――ダンスは人気が出て、そして忘却の彼方に消える、けれどもステップ・シークウェンスは永遠です――少なくともラインダンスが続く限り永遠です。未熟者から初心者から中級者へ、そしてついには上級者へと進歩することは、実は、基本のステップと複雑なステップ・シークウェンスを学んで、両者を統合するという過程にほかなりません。

  そうして、まとめとなる図を開示しておられます。つつしんで引用させていただきます。――

 winnie_final03.PNG

<http://www.dancepooh.com/index.html> 

 以上でございます。

line_dance.gif

 


August 24 ラインダンスとは何だ?  What Is Line Dancing? [スザンナ周辺]

August 24, 2008 (Sunday)

 

August 23 ラインダンスとは何ぞ――おおスイート・カウボーイなおおスザンナ(またつづき) What Is Line Dancing: Oh! Susanna as Oh Sweet Cowboy [スザンナ周辺] のつづきです。

   実はだまっていましたが、モーリちゃんの父にとってラインダンスというと、第一に文明堂のカステラ一番のコマーシャルのくまさんたちのダンスである。おお、何と便利なことよ、インターネットは――


「文明堂CM〝モノクロ版〟」 (0:15) posted by shinzawamotoei on August 12, 2006

   第二、第三に、松竹歌劇や宝塚歌劇の過激なステージダンスである。
   SKD、OSK についてはなかば懐旧的に語るしかないとしても、たいへんにくわしく語るかたがたがいらっしゃる。――

  「松竹歌劇団(SKD)が、新宿の厚生年金会館で最終公演を した日」 〔兵庫県のよーさんの『今日のことあれこれと・・・』ブログ, 2008.2.25〕 三つの歌劇団についての記述だけ引用します。――

松竹歌劇団(SKD)は、宝塚歌劇団、OSK日本歌劇団と並ぶ日本の三大少女歌劇のひとつとして、かつて存在した東京を代表するレビューを主とした歌劇団。浅草・国際劇場を本拠地とし、「西の宝塚・東の松竹」とも呼ばれ、戦前・戦後を通して一時代を築いていた。
SKDとは、劇団名であった「松竹歌劇団」(Shochiku Kageki Dan)の略称。かつて、宝塚歌劇団と同じ関西でしのぎを削り、「歌の宝塚、ダンスのOSK」と並び称されていたOSK(以前の劇団名であった「大阪松竹 歌劇団」(Osaka Shochiku Kagekidan の略称)とは、姉妹会社である。同じ松竹が経営していたSKDは、OSKの後に東京を本拠とする劇団としてつくられたもので、大阪本拠のOSKとの棲み分けを図っていた。このOSKのことについては、OSK日本歌劇団を見てください。

 

 「All About OSK #01 [ロケット] 基礎知識からマニアネタまでOSKに関するトピックスいろいろ」  〔NewOSK*fan magazine〕 日本におけるラインダンスの歴史を詳しく語っているのですが、冒頭の、ロケット=ラインダンスのところだけ引用します。――

ロケット=ラインダンス

「ロケット」「ロケットダンス」という言葉を使うのは歌劇やレビューに詳しい人が多いと思います。一般的には「ラインダンス」のほうが通りがいいん じゃないでしょうか。全員が一列になって揃って脚を上げて踊る群舞です。カントリーラインダンスなど特に脚上げとは関係ない「ラインダンス」もあります が、ショーやレビューの中で「ラインダンス」と言えば脚上げは必須。いかに全員がぴったりと振りを揃えているか、またスピードや回数、上げる脚の高さなど が見どころです。

 もうひとつ「1948年東西松竹合同公演「みどりのカーニバル」【2】」〔ちどりん日記~OSKが好きなのだ~ブログ, 2007.1.8〕 コメントのやりとりでのラインダンスの蘊蓄とOSKへの熱い思いが泣かせます。

  宝塚では今年春のニュースにもラインダンスがクローズアップされておりました。――

   「脚上がってる? 新タカラジェンヌがラインダンスを披露

  あ、字が大きくなってしまった。 〔産経ニュース 2008.3.15 12:00〕

    ところで、当初、松竹+ラインダンスで検索をしてみたのだが、最初にヒットしたのは、

  「カントリーラインダンス(DVD) | 松竹DVD倶楽部」というページでした。 "Let's Country Line Dance" と パッケージに英語で書かれていますが、『カントリーラインダンス』というカタカナ名で販売されている商品です。商品説明の一部と内容説明――

カントリーで踊る・新週末スタイル。初級~上級までこれだけでマスター。

90年代初頭の米国でビートの利いた新ジャンルのカントリーミュージックで踊るダンスとして大流行し、近年日本にも上陸。
始めやすさが特徴!他のダンスに比べ軽装で気軽にでき、動きが多いためダイエットに最適と、女性の注目をあびている
いままでなかった!ニーズに応え中級以上にも対応の、初の教則DVD。(今作のみで初級から上級レベルまでをマスター可)

内容
日本での一般的なイメージと違いカントリーミュージックは、アップテンポのロック調やラップ調のものもありクロスオーバーしたジャンルとして確立されています。そんなカントリーのスタンダードナンバーや、最近の流行歌を使い楽しくダンスが学べます。
今作はテキサスを中心に盛り上がっている列になり皆で踊るラインダンスを中心に紹介しています。

※日本でも盛り上がりを見せるカントリーダンス
・横須賀市では日米親善パーティやプレ市制百周年記念市民主催事業として小学生の教育に取りいれることを決定
・「ホンキートンク」と呼ばれるホール付きのカントリー風大衆酒場が米国で大量出店。都内でも赤坂「カントリーハウス」をはじめウエスタン基調の店で週末はダンスで賑わっています

●ステップの基礎から上級技までを一挙紹介(エレクトリック・スライド、ジャンプ・イン etc)
●構成は、基本ステップ・練習・おさらい と初心者も安心
●インストラクターは、日本カントリー界の草分け的存在 菅原遊氏ほか

 

 

   ということで、輸入ものではなく、横須賀カントリーミュージック&ダンス協会というところが中心になってつくられたもの。発売は2007年1月27日。

   ということで、カナダの余瑞心 Winnie the Pooh 先生は、もともとはカントリー・ミュージックだったがいまはいろんな音楽がラインダンスで使われているという説明でしたが、むしろカントリー・ミュージック自体のクロスオーバーなひろがりととらえる考え方もありえて、このDVDの説明はオクレテルというよりそういう見方かなと思います。アメリカの演歌といわれるカントリーが意外に歴史が浅くて、20世紀後半に大いに変貌したということも話をややこしくさせています(いちおうウィキペディアの「カントリー・ミュージック」は音楽の歴史を考えるうえで参考になるかも)。

   さて、Wikipedia の日本語の「ラインダンス」は次のようないまふうなリンクを含むいまふうな内容のいまふうな記述でした(これは上の「カントリー・ミュージック」にそのまま組み込まれてますねー)。――

ラインダンスLine Danceとは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。 主にカントリー・ミュージックポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンルに特に限定は無い。 

コレオグラファーや有名ダンスインストラクターなどが創作した振りをステップシートにおこし、それが各地のディスコナイトクラブホンキートンクなどでそれぞれ広められる。 カウントや曲ごとに振り付けが決まっていて全員がほぼ同じ振りをする。 いわば日本の“パラパラ”を腕ではなく足のステップを中心に行なうダンスと考えるとわかりやすい。 カウントやステップ、あて曲などに地域差があるが、エレクトリック スライドElectric Slide)やトゥシュ プシュTush Push)などは世界中どこででも通用する有名なステップである。 大抵の場合、DJが曲中のMCで「さぁ~っ ホットなカウガールたちの為に次はヒップホップでいくぜっ! 次は"Men In Black"だっ!」というような感じで、次の曲のステップを予告する場合が多い。 1990年代に、ドワイト・ヨーカム"Crazy Little Thing Called Love動画"ミュージック・ビデオアパレルブランド GAPのテレビCM動画が影響してか、ラインダンスが一世をふうびし、カントリーに限らず ビートの効いたヒップホップやロックスタイルのステップも流行したが、現在はかなり下火になっていてる。 しかし最近では、hpiPodのテレビCM動画 にラインダンスを登場させたり、シャナイア・トゥエイン"I Ain't No Quitter動画" や、マドンナ"Don't Tell Me動画"ジェシカ・シンプソン"These Boots are Made for Walkin 動画" などをはじめとする多くの最新カントリーやポップス・ダンス系のミュージック・ビデオの中でラインダンスを踊るシーンを盛んに盛り込むなど、「ラインダンス・ブームが再燃するのでは」とのうわさもある。 また既出のカウボーイ・トロイCowboy Troy)のように、MVの中で踊られているステップの“インストラクション動画”を公開しているアーティストもいる。

 

  ううむ。松竹過激いや歌劇団のラインダンスは何処に?  しかし日本語Wikipedia には「松竹歌劇団」「OSK日本歌劇団」の記事がもちろんなって、そこでラインダンスにも触れられています(なぜか「宝塚歌劇団」の項目にラインダンスの言及はないのですが)。記述者同士の知識と関心のinteraction がないのね。

 

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追記。以下の記事を書きました。――

August 28-29 ラインダンスとフォークダンス (1)  Line Dances and Folk (1)

August 29 ラインダンスとフォークダンス (2)  Line Dances and Folk (2)

August 30 OED のまとめ――ラインダンスとフォークダンス (3)  OED, QED: Line Dances and Folk (3)

August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4) 

 

 

 

 

 

 


August 24 デイリープラネットのイーストベイ発見 The Daily Planet Presents: Discovering the East Bay [本・読み物 reading books]

August 24, 2008 (Sunday)

    昨日エルセリートプラザの帰りに、サンパブロ通りを渡ったところのPeet's コーヒーの前でもらったThe Berkeley Daily Planet 〔現在紙版は週刊で、WWWでdaily: Volume 10, Issue 25 (August 21-27, 2008)〕を今日になって読んでいたのだが、"Discovering the Easy Bay" 特集で、"A Special Isue devoted to helping you find services you can use in the East bay ... " と食事や交通や歴史や映画や音楽や不動産屋や買物やらについてのさまざまな記事がたっぷり載っているのでした(36ページで読みごたええあり)→ "Local News and Opinion from The Berkeley Daily Planet - Thursday August 21, 2008"<http://www.berkeleydailyplanet.com/issue/2008-08-21>

  Web 版だと第1ページに載っている "Editorial" には、毎年出しているイーストベイ特集号だけれど、ガソリンの値上げで今年はとくに読者には意味あるかも、ということと、毎年この時期にバークレーにはカリフォルニア大学関係でたくさんの人がやってくるので、まず家、それから買物、それから娯楽、ということで情報を提供しています、みたいな書き出しで書かれています。

  東京フィッシュマーケットを取材している

Sampling the Fare at Berkeley’s Tokyo Fish Market

By Anna Mindess, Special to the Planet
Thursday August 21, 2008
 
  も面白かったし、2歳7ケ月の男の子のおかあさんが子供を連れて行く場所について書いている

Tot to Trot: A Few Places to Take the Little Ones

By Sonja Fitz, Special to the Planet
Thursday August 21, 2008
 
  はふんふんと思ったし、
 

Napa Valley Winery Features Great Art

By Richard Brenneman
Thursday August 21, 2008
 
  は筆者の娘さんの写真を見るだけでも楽しいのですが、 前に書いたCody's Books つながりでバークレーの本屋について触れている記事を少し紹介します。――
 

Berkeley Is Still a Great Bookstore Town

By Joe Eaton, Special to the Planet
Thursday August 21, 2008
 
   シャタック通りに移ったCody's が、実はシャタックに店を開いたBarnes & Noble が1年続かずに閉店した後を追うかたちで閉店に追い込まれたことは皮肉で、"independents" も "chains" もどちらも苦しんでいる、と筆者は書きだします。でも、イーストベイにはまだまだいろいろな本屋さんが残っているぞと、ということで新本、古本の本屋さんの紹介です。
Mrs. Dalloway’s (2904 College Ave.)  gardening, poetry, and natural history
University Press Books (2430 Bancroft Way) 
Builder’s Booksource (1817 Fourth St.)  architecture and design
Analog Books (1816 Euclid Ave.) 
The UC bookstore (UCB キャンパス内)
Nolo Press store (950 Parker St., for now)  legal
The Basement @ JazzSchool (2087 Addison St.)  jazz books and records
Down Home Music (10341 San Pablo Ave., El Cerrito)  book section あり
Mr. Mopps toystore (1405 Martin Luther King Jr. Way)  children
あと、モーリちゃんの父は知りませんけどOakland's Rockridge district で――
Diesel (5433 College Ave.)
The Book Tree  (LaSalle Avenue)
A Great Good Place for Books in Montclair   (LaSalle Avenue)
Laurel Bookstore (4100 MacArthur Blvd.)
Books Inc (1344 Park St.)
ほかにも
Rebecca's Books (3628 Adeline)  African-American, esp. poetry
Marcus Books (3900 Martin Luther King Jr. Way)  African-American history, culture, and literature
Eastwind (2066 University Ave.)  Asian and Asian American studies
Afikomen (3042 Claremont Ave.)  Iberian and Latin American culture, cookbooks
そして、新刊書と古書の店の
Moe's Books (2476 Telegraph Ave.)
Black Oak (1491 Shattuck Ave.)
それから古本が主だとモーリちゃんの父は思いますが――
Half Price Books (2036 Shattuck Ave.)
Pegasus (1855 Solano Ave.)
Pegasus Downtown (2349 Shattuck Ave.)
Pendragon (5560 College Ave.)
Shakespeare & Co. (2499 Telegraph Ave.)
Caretesian (2455 Dwight Way)
The Friends of the Berkeley Public Library store (2090 Kittredge St; 2433 Channing Way)
オークランドで――
Walden Pond (3316 Grand Ave.)
The Book Zoo (6395 Telegraph Ave.)
Spectator (4163 Piedmont Ave.)
Black Swan (4236 Piedmont Ave.)
Bibliomania (1816 Telegraph)
Bookmark (721 Washington St.)
 
   あれ、Other Horbit と Serendipity となんだっけ、カメのなんたらいう古本屋はどこへいったのだろう。ちょっと確認してから補足します。
 
  で、記事の筆者はインターネットでの本の購入に触れて次のような言葉で〆ています――
 
The temptation to buy books online can be hard to resist.  But for some of us, those transactions will never replace the thrill of the book hunt: the experience of browsing the physical shelves full of physical books and discovering something we hadn’t known we needed.
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August 25 ひとりバンドのおおスザンナ(イタリア) One-Man Band "Oh! Susanna" (Italy) [スザンナ周辺]

August 25, 2008 (Monday)

   イタリアの19歳の青年のせいぜい頑張っている20秒のパフォーマンス――


"Oh susanna armonica e batteria contemporaneamente!!!" posted by "pepperkk" on May 26, 2008

"Dilettatevi con Pepperk che suona armonica e batteria!" 


August 26 ベルで演奏するおおスザンナ(イタリア) "Oh! Susanna" Played with Bells (Italy)

August 26,2008 (Tuesday)

    イタリアはミラノの学生"MotenaiYoda" 〔これ日本語じゃないのでしょうか?〕 こと Daniloさんによるパフォーマンス――


"Oh susanna" (0:33) posted by MotenaiYoda on August 3, 2008

   なぞビデオ

August 26 ハリエットとアリスとガートルード――昔のサンフランシスコのユダヤ人の少女時代 (3)、またはパリのアメリカ娘たち Harriet, Alice, and Gertrude: A Jewish Girlhood in Old San Francisco (3); or, American Girls in Paris  [本・読み物 reading books]

August 26, 2008 (Tuesday)

August 19 昔のサンフランシスコのユダヤ人の少女時代 (1) A Jewish Girlhood in Old San Francisco

のつづきの

August 22 ハリエットとアリスとガートルード――昔のサンフランシスコのユダヤ人の少女時代 (2)、またはパリのアメリカ娘たち Harriet, Alice, and Gertrude: A Jewish Girlhood in Old San Francisco (2); or, American Girls in Paris 

のつづきの、誰がこんなものを読むのだろう、ウィキペディアの記事の英語と日本語の検討シリーズです(「誰がこんなものを読むのだろう」はウィキではなくてブログの記事のほうにかかっています)。

 

     Harriet Lane Levy (1867 - 1950)

      Alice B. Toklas (1877 - 1967)

      Gertrude Stein (1874 - 1946)

  この3人のパリでの三角関係の話です。もともとモーリちゃんの父がこのLevy の 920 O'Farrell Street という本 (1947 年というとStein の死んだ翌年ですけれど、そこに意味はないようです。Levy はパリ時代を描いた文章を本にする計画もあったようですが、それは未完のままに終わりました) を買ったのは、ガートルード・スタインへの興味からではなくて、自分が今回住むことがかなわなかったサンフランシスコという街への愛情からで(笑)、あとはとくにユダヤ人ということで、ゴールドラッシュ時にやってきたユダヤ人たちがどのように経済的にサンフランシスコに関わったのだろうという興味ぐらいでした。実際、この本は唐突に1906年のサンフランシスコ地震で家が崩壊して閉じるわけで、1907年にAlice とふたりでパリへ向かい、Gertrude Stein と出会いという話までは時間的に入っていません。それでも最後から2ページ目には "In my travels I walked about the ruins of ancient cities, tourist-wise, speculating upon evidence of destruction as great as the fire which had followed upon it.  I returned home to behold a devastation as great as any I had witnessed, created by the earthquake alone, but by the fire which had followed upon it.  I had left closely packed city streets; I returned to a barren waste of hills and to isolated buildings in unconvincing locations."  と、廃墟をめぐる(ということはヨーロッパの)旅から地震のあったサンフランシスコに戻ってきたかのような書き方がされています。実際は地震後にヨーロッパへ旅立ったのに。これは記憶違いか、意識的な虚構なのでしょうか。

  さて、ウィキペディアの、3人の関係を記述した箇所の後半です。――

     In 1908, they summered in Fiesole, Italy, Alice staying with Harriet Lane Levy, her companion on her trip from the United States, and her housemate until Alice moved in with Gertrude and Leo in 1910.  That summer, Gertrude stayed with Michael & Sarah Stein, their son Allan, and Leo in a nearby villa.  Gertrude and Alice's summer of 1908 is memorialized in images of the two of them in Venice, at the piazza in front of Saint Mark's.
     Alice arrived in 1907 with Harriet Levy, with Alice maintaining living arrangements with Harriet until Alice moved to 27 Rue de Fleurus in 1910.  In a portrait written at the time, Gertrude humorously discussed the complex efforts, involving much letter writing and Victorian niceties, to extricate Harriet from Alice's living arrangements.  In "Harriet," Gertrude considers Harriet's nonexistent plans for the summer, following her nonexistent plans for the winter:

     She said she did not have any plans for the summer.  No one was interested in this thing in whether she had any plans for the summer.  That is not the complete history of this thing, some were interested in this thing in her not having any plans for the summer.... Some who were not interested in her not having made plans for the summer were interested in her not having made plans for the following winter.  She had not made plans for the summer and she had not made plans for the following winter....  There was then coming to be the end of the summer and she was then not answering anything when any one asked her what were her plans for the winter.

1908年、スタイン達はイタリアのフィエゾレで夏を過ごし、アリスは、アメリカからの旅仲間で当時の同居人でもあったハリエット・レイン・リービの所に滞在した。その夏、スタインは兄のマイケル・スタイン夫婦とその息子アランおよびレオと近くの別荘に滞在した。スタインとアリスのこの夏は、フィレンツェのサンマルコ広場で撮った写真に収められている。
  アリスは1907年にハリエットと共に渡航してきて、アリスがハリエットとの住まいの環境を整備していた。当時書かれた描写では、スタインが多くの手紙を書いていることやビクトリア様式の繊細さなど複雑な事項をユーモアを交えて話し、アリスの住環境整備からハリエットを解放しようとした。『ハリエット』の中で、スタインは夏にハリエットがいない計画を考え、続いて冬にもハリエットがいない計画を考えた。

彼女は夏の計画はまだ無いと言った。彼女が夏の計画を持っているかについて誰も興味が無かった。それはこのことの完全な履歴ではない。誰かは彼女が夏の計画を持っていないこのことに興味を持っている。彼女が夏の計画を持っていないことに興味が無い者は、彼女が次の冬の計画を持っていないことに興味がある。彼女は夏の計画を立てていなかったし、次の冬の計画も作っていなかった。夏の終わりになって、誰かが冬の計画があるかを尋ねたら彼女は何も答えないだろう。

 

     注釈的にまず書きます。フィエーゾレ Fiesole はイタリア中部のトスカナ州、フィレンツェ北東にある保養地(古都)です。"summer" という動詞は、「夏を過ごす」ですが、特に「避暑する」の意味。さて、 後半にもスタインの文章からの引用があります。わけわかりません(笑)。3行目ぐらいの "Michael & Sarah Stein" の "&" はinformal で、formal にはwrite out して"and" と書くべき。Saint Mark's はふつうは "St. Mark's" (イタリア語で San Marco) で、ヴェニスにあるロマネスク=ビザンチン様式のサンマルコ大聖堂。"the piazza in front of Saint Mark's" というのはいわゆる St Mark's Square (サンマルコ広場)。訳が「フィレンツェの」になっているのは理由不明。"memorialize" という動詞は、たぶん、メモリアルアートの大野屋みたいな感じのイロのある言葉で、もっとストレートな言葉を使えよとモーリちゃんの父は小さな声で言いたい。

  2番目の段落の "with" の反復と情報の反復については既に書きました。 "living arrangements" についても、辞書には載っていないみたいなので自信はありませんが、書きました。"portrait"というのは、もちろん言葉による肖像画ですけれど、ガートルード・スタインが、1934年にPortraits and Prayers というタイトルで出版した本に収められた1909年から33年までの 58のポートレトのひとつが "Harriet" です(ほかには画家のピカソやセザンヌやマチスとか、作家のヘミングウェイ、T・S・エリオットとかいろいろ)。 このポートレトはファースト・ネームだけで「ハリエット」なんです(失礼な、プンプン、あるいは奇妙な親しみでしょうか)。"involving much letter writing and Victorian niceties" のところは、原文を全部読まないとたぶんわからないので、いい加減なことは言えませんが、手紙については前に勝手に推測したように、スタインからレヴィに送ったのでしょうけれど、「ヴィクトリア朝の上品さ(だか優雅さ)」というのは、ストレートではなくて微妙にあてこするようにさぐるようにレヴィへ要請したというようなことなのではないかと思われます。"to extricate Harriet from Alice's living arrangements" は既に示唆したように、"complex efforts" に直接つながります。

  さて、そうして、後半でもまたわざわざスタインの文章が引用されているわけです、わけのわからない(笑)。そして、もとの英語版のWikipedia は、ここでもまたMellow の著書から孫引きしています。前に書いたように、 Charmed Circle という本はGoogle ブック検索で(いくらか)読めるのですけれど、 第6章の "The Couples" のセクション3の149ページから151ページくらいの記述と引用が関わっています。けれど150ページの半分くらいが読めないので、よくわからないのでした(w さすがにただじゃ全部は読めんか― http://books.google.co.jp/books?id=2CDJkDE8aZ0C&pg=PA144&lpg=PA144&dq=Mellow+%E3%80%80living+arrangements+Charmed+Circle:+Gertrude+Stein&source=web&ots=43skmZtjLn&sig=UZfemVU3m2qyLBwDh7B5qHCdeqY&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result#PPA150,M1)

  Mellow の引用もブツ切れなのですが、もう少し長いです。地の部分の文章をかいつまんで紹介すると、 ガートルード・スタインがアリス・B・トクラスに同居しないかといったのは1909年の春のことらしい。兄のレオ・スタインも喜んで承諾した。ガートルードもアリスも心は決まったのに、ハリエットの問題があったために正式に引っ越すのにはさらに1年がかかった。ガートルードもアリスもハリエットにふたりの決定を告げるのは気が進まなかった。かわりに、ハリエットから次の冬の計画について訊こうとした――ヨーロッパにとどまるのか、アメリカに帰るのか。ふたりはハリエットに彼女の計画について質問するだけで、そうはっきりとは求めなかったらしい(原文― They seem not to have asked Harriet very pointedly, merely questioned her about her plans.  "ask" の意味はあいまいです)。意図的にか無意識にかハリエットはふたりの質問を理解せず、次の夏についてはまだ計画が決まってないと答えた。ハリエットが決断を遅らせているあいだ、二人は待った。けれども(とMellow は勝手なことを言います)この状況は面白い言葉によるポートレトの機会をガートルード・スタインに提供した。決心を鈍るハリエットについての習作。

The portrait begins by dumbly stating the problem, then offering a too-general response.  It then corrects itself to take into account all parties interested in Harriet's not having made any plans.
 

She said she did not have any plans for the summer.  No one was interested in this thing in whether she had any plans for the summer.  That is not the complete history of this thing, some were interested in this thing in her not having any plans for the summer.  She was interested in this thing in her not having any plans for the summer.  Some to whom she told about this thing were interested in this thing.  Her family were interested in this thing in her not having not yer made any plans for the summer.  Others were interested in this thing, her dress-maker was interested in this thing and her milliner.


It then proceeds to outline the very special case of the author and Alice:

Some who were not interested in this thing in her not having made any plans for the summer would have been interested in this thing in her not having made any plans for the summer if she had made plans for the winter.


The portrait travels through a circular route in time:

What would be her plan for the summer.  She would not have any plan for the summer.  She would not really come to have a plan for the summer and the summer would be a summer and then there would be the winter.  She would not have any plan for the winter and some would ask her what was her plan for the winter.  There would not be then any more summer.  There would be then a winter. 〔このあとの引用は読めず〕

(pp. 149-50)

   やっぱり全部読まんとわからんでしょうね。わからんものを引用するなよ(と言いたい)。わからんのですけれど、 "Harriet's non-existent plans" というのは「ハリエットがいない計画」という意味ではないでしょう(わからんものをわからんように訳すなよ(と言いたい))。

  図書館で調べている余裕がないので、インターネットで調べると、1934年11月26日号のTime 誌の書評がありました―― "Stein Way, Grand: PORTRAITS AND PRAYERS--Gertrude Stein--Random House ($2.50)"  <http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,882347,00.html>。 書評子(名前は載っていない)は、(意外にも)"egregiously clear" として "Harriet" からまとまった引用をします("one Harriet" という書き方で、このハリエットがどのハリエットかを敢えて特定しようとしないで、文章だけを問題にしているのですけれど)。――

The reader who wins to p. 105 will discover a portrait of one Harriet which is egregiously clear. Some of it: "She said she did not have any plans for the summer. No one was interested in this thing in whether she had any plans for the summer. That is not the complete history of this thing, some were interested in this thing in her not having any plans for the summer. She was interested in this thing in her not having any plans for the summer. Some to whom she told about this thing were interested in this thing. Her family were interested in this thing in her having not yet made any plans for the summer. Others were interested in this thing, her dressmaker was interested in this thing and her milliner. Some then were interested in this thing in her not having made any plans for the summer. Some were not interested in this thing in her not having made any plans for the summer. Some who were not interested in this thing in her not having made any plans for the summer would have been interested in this thing in her not having made any plans for the summer if she had made plans for the winter...." 

 

   モーリちゃんの父の感覚だと、このスタインの文章のわからなさのひとつは、 "any" と "some" の曖昧さ、それに否定のnot と no とがどう限定的にかかわるのかかかわらないのか、なのですけれど、それは日本語に移せないのではないかという気もします。逃げて直訳することにする。「彼女は言った、その夏に何の計画もないと。誰もがこのことに関わりがなかった、彼女がその夏に何か計画があるかないかに。それはこのことの完全な歴史ではない、このこと、彼女がその夏に何の計画もないことに関わりがある者たちがいた。彼女〔これは誰でしょう?〕はこのこと、彼女がその夏に何の計画がないことに関わっていた。彼女がこのことを話したなかにはこのことに関わっている者たちがいた。彼女の家族はこのこと、彼女がその夏にまだ何の計画もないことに関わっていた。このことに関わっている他の者たちもいた、彼女の仕立て屋はこのことに関わっていた、そして帽子屋。だから、このこと、彼女がその夏に何の計画もないことに関わっているものがいた。このこと、彼女がその夏に何か計画がないことに関わっていない者たちもいた。このこと、彼女がその夏に何か計画がないことに関わっている者たちは、もしも彼女がその冬に計画があったなら、このこと、彼女がその夏に何の計画もないことに関わっていただろう。」 わ、わけわからん。・・・・・・いや、わからなくはないですけど。あとから何もと何かを適当に加えてみたらヘンになった。いや、わからん。

  あらためてウィキペディアを見ると、150ページの読めないところから引いている最後の部分、"There was then coming to be the end of the summer and she was then not answering anything when any one asked her what were her plans for the winter."は、1910年の夏と冬のことを言っておるのでしょうね。その前の部分の、"There would not be then any more summer.  There would be then a winter." の、次の冬で終わり(で夏はない)かというのが1909年。

  Mellow の引用後の地の文章を読むと、その後サンフランシスコからHarriet の友人のCaroline Helbing が来てパリに滞在し、その間、スタインとアリスとハリエットとキャロラインの4人でしばしば食事をしたり画廊まわりや買物に行ったりしたが、そのHelbing がアメリカに帰る際に見送ったアリスが "Caroline dear, you must see that when Harriet goes back to America she does not return to Paris because it is already arranged that I should go to stay with Gertrude and Leo at the rue de Fleurus." と語り、相手は "That is what I suspected.  You can count on me." と答えた、という会話が引用されています (p. 151) が、この、ハリエットにとっては悲しいセリフがいつのことなのか書かれていません。けれども、(とMellow は続けて、)ハリエットは1910年の夏、マイケル・スタイン一家と一緒にアメリカに戻るまで帰らなかった。そしてその9月にイタリアでの秘書いや避暑から帰ってきたアリスとガートルード・スタインは、スタインの家での生活を始めます、アリスはスタインの秘書になって。やがてアメリカのハリエットからアリスに手紙が来る。ふたりのアパートを片付けて、買った絵をサンフランシスコに送ってくれ、と。しばらくカリフォルニアにいることになろうだろうから、と。

  また同じ画像を貼ります。1909年夏のフィエーゾレ。このときもうアリスはガートルード・スタインから告白されています。肩に手をまわされたアリスはカメラのほうを向いていますがハリエットはなぜか目をそらしています。ハリエットの気持ちを思うと切なくなる写真なのでした。

HarrietLevy&AliceToklas,Fiesole,Italy1909.jpg

Harriet and Alice in Fiesole, Italy (1909)

 


August 20 『アイラ・ガーシュウィン』と『ガートルード・スタイン・イン・ピーシズ』I ra Gershwin by Philip Furia / Gertrude Stein in Pieces by Richard Bridgman [本・読み物 reading books]

August 20, 2008 (Wednesday)

    この日、アマゾンを通して2つの古本屋から届いた本。新しいペーパーバックあるいは古いペーパーバックより古本のハードカヴァーのほうが安いので、2冊ともハードカヴァー。

   ☆Philip Furia, Ira Gershwin: The Art of the Lyricist.  New York; Oxford: Oxford University Press, 1996.  vii+278pp.

            ISBN: 0195082990    

      ★Richard Bridgman, Gertrude Stein in Pieces.  New York: Oxford University Press, 1970.   xvi+411pp.

            Library of Congress Catalogue Card Number:71-123609

   両方とも偶然出版社はオックスフォード大学出版局 (OUP) なのだけれど、ブリッジマンの本が出た1970年というのは、イギリスでおこったSBNを国際標準化機構が国際化してISBNが始まる年なわけですが、この本にはISBN は載っておらず、かわりにアメリカの議会図書館の図書番号71-123609がコピーライトページの下に記載されていました。ためしにこの番号を入れたら、WorldCat の検索 ではブリッジマンの本を含む3冊がヒットしました(なんかひとつは雑誌でもうひとつは1920年代の本みたい)。不思議。

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  ガーシュウィンというと弟の作曲家のGeorge Gershwin (1898 - 1937) が有名で、兄のIra は影が薄い存在かもしれませんが(モーリちゃんの父はむかし亀井(俊介)さんに、アイラ・ガーシュウィンのことを話したら、だ誰それ?と言われました)、作詞家のIra Gershwin (1896 - 1983) は音楽的という以上に文学的な人だったと思われます。前にアル・ジョルソンについて書いたときに〔July 21 アル・ジョルソンのフォスター歌唱 Al Jolson's Foster Songs〕、ガーシュウィンの出世作は1919年の "Swanee" だったと書きましたが、その作詞は Irving Caesar でした。十代のときからティンパンアレーで音楽に携わる弟のジョージに対して、内向的で読書好きの兄のアイラは父親の経営するお風呂屋さんでレジ係をやったり客にタオルを投げたりしながら詩を書いていたようです。自身が作詞家として音楽の世界にかかわるようになるのは遅れてのことです。はじめは弟妹の名前を合成して Arthur Francis というペンネームで作詞をしていたようですが1924年のフレッド・アステア主演のブロードウェイ・ミュージカル Lady Be Good で兄弟はがっちり組んで曲をつくるようになります。1937年にジョージが急逝するまでの十数年間で、ミュージカルや映画の音楽をてがけ、作詞アイラ・ガーシュウィン、作曲ジョージ・ガーシュウィンのスタンダードナンバーは・・・・・・どれくらいの数あるんでしょう。有名なのはやっぱり映画『巴里のアメリカ人』で使われている曲でしょうか〔August 9 パリのアメリカ娘 An American Girl in Paris〕。"Foggy Day" "But Not for Me" "Nice Work If You Can Get It" "I Got Rhythm" "Embraceable You" "Love Is Here to Stay" "Someone to Watch Over Me" "I've Got a Crush on You" "'S Wonderful" "They Can't Take That Away from Me"などなど。まだパラパラ踊っている、いや読んでいるところですが、初期の "Boy Wanted" という歌 (1921; 1924) の

   The movies he must avoid.

     He'll know his Nietzche and Freud.

という2行についての議論が面白かった。これについて、著者のFuria は、会話の自然な語順を変えてFreud と韻を踏ませた、というように言い、アイラの詩の"peccadillo" (小さなあやまち、微罪)というふうにとらえています。引用前の文章は次のようです。――

Another lyrical peccadillo―one that, curiously, would mar some of his finest songs(18)―is his inversion of normal word order. In "Boy Wanted" Ira disrupted the conversational flow of his lyric in order to bring off a rhyme on Freud (the first mention of the psychiatrist in an American song lyric):

つまり、韻を踏ませるために通常の語順を変えて、会話体の自然な言葉の流れを損なってしまう、というわけです。(ついでながら、このニーチェとフロイトへの言及について、後者のほうはアメリカの楽曲で初めてフロイトの名前が出たのがこの曲と書かれています。ニーチェは先がいたのねw)。けれど、原著18番の注があって、そこでは、アイラ・ガーシュウィンの秘書を長年つとめていたLawrence Stewart という人が手紙で指摘したこととして、意味がなかなか確定しない修辞をアイラ・ガーシュウィンという作詞家は好んだかもしれないという見方が書かれています。

[. . .] such inversions reflect Ira's fondness for periodic sentences (where the word order suspends the meaning of the sentence until the last word has been reached― "a wonderful dramatic device").  Stewart adds, "Ira was a great student of the 18th century, when that rhetorical structure was so frequently employed."

   "periodic sentence" はワープロが変換してくれないじゃないや掉尾文(とうびぶん)と日本語で呼ばれるもの。節がたくさんあって文の終わりで初めて文意が完成するセンテンスのことです。まあ、引用の2行の He must avoid the movies. の目的語と主語・動詞のinversion だけでトウビブンもへったくれもないかもしれませんが、なかなか面白い考察だな、と思いました。

   著者の前著に The Poets of Tin Pan Alley: A History of America's Great Lyricists (OUP, 1990) があり、Irving Berlin, Lorenz Hart, Cole Porter, Dorothy Fields, そして Ira Gershwin を扱っています。作曲もしたIrving Berlin やCole Porter と違って作詞だけしたIra Gershwin のlyrics について、詩の芸術として考えること、しかし一方で、音楽と不可分に結びついた詞として考えること、ということで、多分に実証的に詩のヴァリエーションや改変の経緯を調べて書かれた評伝です。

   ガーシュウィン兄弟の父親は、もとは Moishe Gershovitz というロシアからのユダヤ人移民で、 Morris Gershvin につづりを変えて、ニューヨークに住みます。奥さんの Rose (Rosa Bruskin) が1896年に男の子を産んだときに、Israel と名付けますが、 Izzy と呼びならわします。自分の本当の名前がなんというのか訊けるくらいに成長したときに、訊いてみると、両親とも忘れてしまっていました(ほんとかいな)。何年もあとになって、パスポートの申請をしたときに、Izzy (アイラ)は、自分の名は Isidore と思っていたのが実は Israel であったことを初めて知ります。でも、そのときまでには Ira の名前で呼ばれるようになっていたようです(ややこしい)。日本語ウィキペディアの「ジョージ・ガーシュウィン」にはGershvin の綴りは書かれておらず、よくわからないですが、父親はGershvin を名乗っていたはずで、その姓を子供たちはさらに変えたということなのでしょうか(ややこしい)。

IraGershwin&GertrudeSteininPieces_DSC_1008.jpg 

  リチャード・ブリッジマンは、the American vernacular と呼ばれる アメリカ口語の文体の研究書として有名な The Colloquial Style in America (1966)の著者として有名です。ブリッジマンがスタイン研究の古典を書いていることは知っていましたが、もっていませんでした。1970年というとだいぶ前ですけれど、ブリッジマンが使っている資料には30冊を超える初版の作品のほかに、Yale Edition of the Unpublished Writings of Gertrude Stein  や Annette Rosenshine の自伝 Life Is Not a Paragraph や Alice B. Toklas の What Is Remembered やその他イェール大学のGertrude Stein Collection (未刊行の原稿など)、カリフォルニア大学Berkeley 校のBancroft Library の資料(関係者の日記やインタヴューなど)などいろいろで、さすがだなあ、と思いました。アリス・トクラスについていえば、やっぱスタインが書いた『自伝』ではなくてアリス自身が書いたもの(What Is Remembered はアリスのほんとの自伝です)を使わねば、と思います。

  アリス・B・トクラスとの出会いについては、1907年の夏に会う前から知っていた、という興味深い記述がありました。――

    As part of her study of human character, Gertrude Stein had for several years begged and even demanded correspondence from her friends so that she might analyze it for evidences of bottom nature.  In this way she became acquainted with Alice Toklas long before she ever laid eyes on her.  Without Alice Toklas's knowledge, Annette Rosenshine permitted Gertrude Stein to read the letters from her San Francisco friend 〔つまりアリスのことです〕as they arrived.  The two women finally met in September 1907, on Alice Toklas's first day in Paris.  That first meeting was in the presence of others.  Their second was alone 〔アリスとスタインのふたりだけの意〕.  Alice Toklas was late for the appointment, and although she sent a message ahead, a peculiar scene followed her arrival.  Gertrude Stein opened the door wrathfully.  "She was now a vengeful goddess and I was afraid.  I did not know what had happened or what was going to happen."

     "Nor," continued Alice Toklas, "is it possible for me to tell about it now.  After she had paced for some time about the long Florentine table made longer by being flanked on either side by two smaller ones, she stood in front of me and said, Now you understand.  It is over.  It is not too late to go for a walk.  You can look a the pictures while I change my clothes"  (WIR, 23-24)

    最後のWIRは アリス・B・トクラスの What Is Remembered (1963) の略です。

    メモ的にもう少し書き写しておきます。――

    Alice Toklas began making herself useful to Gertrude Stein by reading proof for Three Lives.  Then, having learned to type for the purpose, she started to transcribe the enormous manuscript of The Making of Americans.  Alice and Harriet Levy summered in Italy near Leo and Gertrude.  Then in 1909, when Harriet Levy decided to return to the United States, Gertrude invited Alice to move in with her.  "You don't want to go back to the apartment alone, do you, and I said no, and so it was"  (Sprigge [, Elizabeth, Gertrude Stein: Her Life and Work (New York, 1957)], 83-84; see also WIR, 61-62).

     Henceforth Alice Toklas never relinquished her place in Gertrude Stein's life.  Although she had a mind and a will comparable to Gertrude Stein's, she never attempted to compete with her.  She was unswervingly loyal and capable of doing anything to assist her companion: typing, shopping, planning travel schedules, acting as receptionist and cook, keeping up the correspondence.  Her influence on Gertrude Stein's decisions was considerable.  Many people courted her favors, and many more feared her power.  No one has been described with more malicious relish than she.

   ということで、アリスがいろんな女性から嫉妬その他の原因で悪口を言われることが多い。そのなかにまたAnnette Rosenshine (アリスのいとこでマチスの教室に通って彫刻家になるサンフランシスコの女性です)と(Rosenshine を通しての)Harriet Levy への言及があります。

Some of Gertrude Stein's other women friends reacted with varying degrees of resentment to Alice Toklas's appropriation of the role of factotum.  Etta Cone, who had typed Three Lives for Gertrude Stein, was obliged by ill health to yield her secretarial labors.  In a 1907 letter she asked, "Has my successor done her duty by my place what she usurped . . . ?"  〔1907年に原稿整理とかをアリスはすでに始めていたということですか〕 Her tone was jocular but plaintive.  "I am sometimes envious" (Pollack [, Barbara, The Collectors: Dr. Claribel and Miss Etta Cone (New York, 1962)], 91).  Annette Rosenshine, who had known Alice Toklas well in San Francisco, and had preceded her to Paris 〔やっぱりアリスとハリエットより先にパリに行っていたのね〕, became an early subject for Gertrude Stein's intensive psychological analysis.  She remembered Alice had long sought a cause "worthy of her talents; now she could concentrated her efficiency and her cleverness both in furthering Gertrude's literary career, as well as catering to any indulgence that the spoiled child craved.  In part, friendships with both Harriet Levy and me had shown her need to pull strings, but we, her San Francisco puppets, had been too inconsequential"  ("Life's Not a Paragraph," 83).  Mabel Dodge suggested that Alice Toklas had carefully insinuated herself into the Stein household, then dislodged Leo.  She reported that at the time Leo had been perturbed to see Alice "making herself indispensible," while Gertrude grew increasingly "helpless and foolish from it and less and less inclinedto do anything herself . . . he had seen trees strangeld by vines in the same way"  (European Experiences, 327).

   でもガートルード・スタインは自主独立のひとだったし、アリスが兄妹の仲を割いたのではないとブリッジマンは説明します。

  この本を手にして初めてブリッジマンRichard Bridgman (1927 - 2005) がUC Berkeley の英文の先生だったことを知りました(知らなかったのはうかつでした)。1927年オハイオ州に生まれ、高卒後、第二次大戦末期に従軍、戦後ニューヨークでしばらく記者生活をして結婚、それからカリフォルニアに引っ越してきて、UC Berkeleyでマーク・トウェイン学者として有名なHenry Nash Smith のもとでアメリカ文学を研究します。1989年に教授職から退くまでマーク・トウェイン・プロジェクトなどさまざまな企画に参与。

  ブリッジマンは2005年1月17日に亡くなりました。いま2005年2月17日付のobituary (UCBerkeleyNews) を読んでいるのですが、息子さんがエピソードを語っていて、しみじみしました。――

His son, Roy, recalled his father typically read several books simultaneously and loved public libraries and used book shops. Bridgman also was an avid gardener and traveler. (息子のロイは、父が、典型的には何冊も同時に本を読んでいたこと、街の図書館と古本屋を愛していたことを回想した。ブリッジマンはまた、熱心な庭師であり旅人でもあった。)

Roy Bridgman noted that his father staunchly refused to use a computer, except in libraries without card catalogs. Even after his father lost his manual typewriter in the 1991 Oakland Hills fire, he acquired a replacement from antiquated equipment about to be scrapped by the English Department. "He rebuilt his house overlooking Claremont Canyon and used that typewriter for the rest of his life," said Roy. (ロイ・ブリッジマンは、父親が、カード式のカタログのない図書館をのぞいて、コンピューターを使うのを頑として拒否したと語った。1991年のオークランド・ヒルの火事で手動のタイプライターを失なったあとも、英文科から廃棄される寸前の古い機械〔タイプライター〕を代わりに手に入れてきた。「父は、クレアモント・キャニオンを見下ろす家を建て直して、亡くなるまでそのタイプライターを使いました」とロイは語った。)

   それと、この本で初めて知ったのですが、ガートルード・スタインも子供時代にカリフォルニアに(オークランドに)住んでいたのでした(知らなかったのはうかつでした、もしかして、パート2)。 アリスとガートルード・スタインの境遇には似たところがある、とブリッジマンは書いています。

 

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gershwinfan.com <http://www.gershwinfan.com/Home.html>

"Richard Bridgman Dies at Age 77" <http://berkeley.edu/news/media/releases/2005/02/17_bridgmanobit.shtml> 〔UCBerkeleyNews, 2005.2.17〕

 

 

 


August 14 偉人の字影 Word Shadows of the Great: The Lure of Autograph Collecting [本・読み物 reading books]

August 14, 2008 (Thursday)

   この日にアマゾンのマーケットプレースを通して、ネブラスカ州東部のミズーリ川沿いのOmaha 市の Friendly Used Books から届いた本。

  Thomas F. Madigan, Word Shadows of the Great.  New York: Frederick A. Stokes, 1930.   xv+300pp.

         現在出ているreprint は2007年3月に Lancour Press という出版社から出たもので 388ページ、$30.95 。しかし・・・・・・原著は多数の図版(独立している場合はページナンバーがない)があり、もしかするとそれをカウントしただけの復刻版かもしれません―ISBN: 978-1406776928; amazon

      本体$6.50と送料&梱包料$3.98、合計$10.49 で購入。

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  モーリちゃんの父は、書籍小包(というか今ふうの言い方だと冊子小包)は別にビニール袋に入れたりしないでも紙だけでいいと思う(思っていた)のですが(これはまあ日本での感覚)、この本屋さんからの郵便は、ひさしぶりに心なごんだというか(昔の、別の品物を例に出せば、ただ封筒に入っただけのハサミとかあったものですから――「May 1 かみきりばさみ Scissors」)、ああ、これはいい古本屋さんだなあ、と、アマゾン経由ながら思ったことでした。外側はぴったりとした大きさの段ボール紙で梱包されていたのでした。

  Mary Ann Nyberg & Bart Nyberg / FRIENDLY USED BOOKS / 6601 Maple St. Omaha, NE 68104

    モーリちゃんの父はin person に訪ねる機会があるでしょうか。あるようにここに書きとめておきたい。

   この、2007年に、amazon だとよくわからないリプリント版が出た本(だって、ほんとにわからない・・・cf.  <http://www.amazon.com/gp/product/B000857RTE/ref=olp_product_details?ie=UTF8&me=&seller=>)は、初版が1930年ですから、なかなか古い本です。で、重い。ものすごく重い。いまだったらこの半分の重さだろう、というぐらい重い。送料だけで3ドル数十セントかかっているくらい重い(たしか)――amazon のマーケットプレースは送料&梱包手数料一律3.98とかですけれど、実際の送料はいろいろです。

   autograph というのは自筆、自署、肉筆、サイン、自筆原稿の意味です。ポーに"Autograph" というエッセーのシリーズがあって、それは作家の署名を印刷しながら、この人はautograph にその特徴が現われているように繊細すぎる、とか、autograph 同様に自由奔放とか、まあどれだけサインにそれを書いた人の内面(character) が現われていると信じていたかはわかりませんけれど、autograph をダシというかタテというかにして、言いたい放題を文学者たちについて評論するシリーズです。

   で、ここから数行はまったく個人的な、ブログらしい内容なのですが(w) 、7月のある夜、酒が入った状態で注文した本の一冊です。そのときの気持ちだと、そういうポーについての論考を含むなかばオカルト的な署名研究と思ったのですが(lol)。実際届いた本を開けてみると、ポーとautograph とhieroglyphics について書いてあるかと思ったところは、ただautograph の起源はエジプトの神官の文字のhieroglyph (象形文字; 神聖文字)にまで遡る、みたいな、え、それって書き言葉の起源がhieroglyph にあるっていうのと同じじゃん、という、酒飲みによくある願望充足の非現実の夢想でしかなかったのでした。

   それでも、この本は、楽しい本です。つい著者に興味がわいて、今調べている最中なのですが、そのうちもう1回だけ書きます。

   冒頭のエピソード "A Gift for the Mikado" は、昭和天皇即位のおりに、ニューヨークの在留邦人たちが、お祝いの品を何にしよう、とあれこれ悩んでいたときに、著者のMadigan が、歴代の大統領の直筆の文書のファイルを送ったらどうでしょう、と提案したのが実現して、いま昭和天皇の書斎の棚にアメリカ大統領の肉筆文書があるはずだ、というお話です。――

   When a group of prominent Japanese representing the Japanese residents of New York set out to procure a gift for the Emperor Hirohito on the occasion of his coronation in 1928, they were confronted with a difficult task.  For not only from the millions of his faithful subjects in Nippon itself but from Japanese and friends of Japan the world over, a deluge of gifts of great variety was bound to pour in.  Their problem was to obtain a gift that would be at once appropriate and distinctively American, and one that would not be likely to be duplicated from any other quarter.  Radios were suggested, books were considered, many other ideas proposed, but all were in turn rejected as not fulfilling the requirements.  Being apprized of this situation, I suggested to a member of the committee thata collection of autographs of the Presidents of the United States, apporpriately bound with a series of portraits, might be a happy solution of the problem.  Such a gift would be distinctively American and would not be likely to be duplicated.

   Thus it came about that I had the privilege of forming the splendid collection of autographs of the Presidents of the United States which now reposes in the library of the Mikado, the gift of the Japanese of the city of New York. 〔以下ついでに引用を続けます〕 This is but one of many indications of the growing interest in autographs, of the increasing appreciation of their significance.  Ten years ago the use of autographs for such a purpose would not have been considered. Today the whole world know or is rapidly learning the sentimental, cultural and historical import of autographs.

   モーリちゃんの父は、ついでにということで引用した最後の部分、つまり、「これは直筆文書に対する関心の高まり、その意義に対する評価の増大を示す一つの例に過ぎない。 十年前にはこのような目的で直筆文書を用いるというようなことは考え難かっただろう。現在は、直筆文書の情緒的、文化的、歴史的意味を、世界じゅうの人々が知っている、あるいは急速に学びつつある。」という、文章を書く書き手の姿勢というか、つまり、そのときにしか書けない、何年か経ったら、ズレテいる、あるいは心ある人は刊行年にあわせてスライドするのかもしれませんけれど、こういうふうに時代を刻印してしまう書き方、ということが、ちょっと気になったりしています。もちろん、気持ちはわかるし、自然なのだけれど、本を書くということと、思い描く読者の時間というような問題。たとえば、滝沢馬琴が200年後の読者に解読を託すみたいなことを書いたり、アメリカのホーソンが読まれる宛てのない手紙として風のまにまに本のページ(leaf) をまき散らすのだ、みたいに書くような意識(それは読者が現在いないということでは必ずしもない)との違いとか、ブログの読者はどこにいるのかとか(笑)。

  でも、Thomas F. Madigan という、直筆署名文書のコレクションの大家であったらしい人はこのときに書かざるを得ない。そして(因果関係などまったくありようもないですが)1935年にまだ50歳前の若さで亡くなってしまいます。

  この本は、人の書き記す文字(これは英語でcharacter と呼ばれうる――いま思い出しましたがアメリカのゴシック作家の最初に位置するCharles Brockden Brown のArthur Mervyn という長篇小説の最初のほうに、character を人間の性格と文字の両方の意味で考えているか、とれるような一節がありましたねー(って誰も知らんがな)―― )が人の内面のcharacter とcorrespondしているみたいなことを主張するものではなくて、署名・直筆文書の蒐集の楽しみを語る趣味の本です。で、若干の例外はあるがすべて著者のコレクション、といっている、全巻にちりばめられたさまざまな人々のautographが、え、うっそー、これみんなもっているのー、という感じで圧倒される内容なのです。ウンチクもその道の達人の語ることですから、おもしろい。

   出し惜しみする気はまったくないですけれど、もう一回はこの人について調べて書こうと思いますし、スキャンも重たい(来年の3月まで100MB 内でもつのでしょうか)ので、ポピュラーそうなふたつだけ紹介しておきます(こういうとき著作権はかかわるのでしょうか)。

GeorgeWashington_autograph_1024.jpg

George Washington が18歳のときに書いた地図と文章

 

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Abraham Lincoln のGettysburg Address の自筆原稿

付記 (カリフォルニア時間8月28日午前11時)

  記事のタイトルに日本語を加えました。本のタイトルの"Word Shadows" は Charles Reade (1814 - 84) という英国の作家の文章からとられています。―― "These ink scratches, which in the imperfection of language we have called words, till the unthinking actually dream they are words, but which are the shadows of the corpses of words; these word-shadows then were living powers on her lips, and subdued, as eloquence always does, every heart within reach of the imperial tongue." (Peg Woffington, Christie Johnstone, and Other Stories [1869?]) <http://books.google.co.jp/books?id=oZv3TZsVU_sC&pg=PA23&lpg=PA23&dq=Charles+Reade%E3%80%80%22word+shadows%22&source=web&ots=SLmxiQBptL&sig=ctGW3ZvYhkx702wQ3zAdW9fNu8w&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result>

   書影ということばはありますが、字影ということばはあるのかしら。中国語にはあるみたいですけど。まいっか。

 

 たまには

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August 17 八百屋さんマーケット前の古本市で買った本 Books Bought at the Used-Book Fair at Yaoya-San Market [本・読み物 reading books]

August 17, 2008 (Thursday)

    ほんとうは、いまカリフォルニア時間8月28日夜9時半になろうとしているところで、さっきラインダンスについて書いている途中でパソコンがダウンしてものすごく落ち込んでいるモーリちゃんの父です(涙・・・暑さのせいかなあ、でも電源が落ちたのではなくて急に画面がフェイドアウトし、さらに、すぐに保存できるかもみたいな画面が出たのだけれど・・・)。埋め草というわけではないけれど、このあいだの八百屋さんマーケットの前の月に一度の古本市で買った本をメモっておきます。

  モーリちゃんもモーリちゃんの母もこの古本市には行ったことがなくて、 帰ったてから、「英語の本とかはないの」と訊かれ、あ、そういえばないなあ、と愕然と(はしていないが悄然と(もしていないが慄然と(もしていないが唖然と(もしていないが自然と))))脱力した記憶があります。

  買おうと決めた本を3冊片手に掴んでさらに本を見ていたら、ビニール袋(といっても使い古しということがわかるスーパーのだ)を手にして、「これどうぞ使ってください」と渡そうとするので、え゛、でもコンフュージングじゃないですか、と英語混じりの日本語で言ったら、「だいじょうぶですよ~」とのほほんと答えたあのひまわり会の女の人は、もしかして今回の案内記事をブログに書いた人でしょうか。買う前の物を袋に入れてしまうなんて(だってその袋は売ったときに入れる袋と同じなのでしょ)、とちょっと唖然・愕然・慄然としたのですけれど、アメリカに住んでいると生じる信用なんですかねえ、ほんとにそんなにハッピーなところなのかしら。

  yaoyasan_oldbooksfair_aug2008DSC_0167.jpg

左より

澁澤龍彦 『ヨーロッパの乳房』  (河出書房新社, 1987) 286pp.

L. ヴィトゲンシュタイン 藤本隆志・坂井秀寿訳 『論理哲学論考』 (法政大学出版局, 1968) 344pp.

朝日新聞社編 『日本とアメリカ』 (朝日新聞社, 1971) 489pp.

KEN佐藤 『羅府ぎぎゅう音頭』 (善本社, 1983)  315pp.

黒川修司 『赤狩り時代の米国大学――遅すぎた名誉回復』 (中央公論社, 中公新書, 1994) 232pp.

 

    なんか書きだすと眠れなくなりそうなので(現在カリフォルニア時間28日22時前)、乳房という字をひさしぶりに書いた(打った)ということだけ書き留めさせていただきます。「オカルティズムについて」 (208-16) があったから買ったのですけれど、股ずれ、いやまたいずれ。

ハードカヴァーは2ドル、ペーパーは1ドル。ということで計7ドル。 ヴィトゲンシュタイン200円は安いっす。

9月は21日(日)の予定です。

 


August 28-29 ラインダンスとフォークダンス (1)  Line Dances and Folk (1) [スザンナ周辺]

August 28, 2008 (Thursday)

    日本語のウィキペディアの「ラインダンス」は、もっぱら1990年代以降のナウいラインダンスしか眼中にないようでしたが、英語のWikipedia の"line dance" はもっと視野の広い記述になっています。冒頭の記述と、歴史的な記述のところで、示唆的な文章がありました。

   冒頭では簡潔な定義がなされています。――

A line dance is choreographed dance with a repeated sequence of steps in which a group of people dance in one or more lines (British English, "rows") without regard for the gender of the individuals, all facing the same direction, and executing the steps at the same time.  Line dancers are not in physical contact with each other.  Older "line dances" have lines in which the dancers face each other, or the "line" is a circle, or all dancers in the "line" follow a leader around the dance floor; while holding the hand of the dancers beside them.[1]

  ラインダンスとは、反復されるステップ・シークウェンスで踊る、振り付けられたダンスで、一ないし二以上のライン line (英国英語では "row" )を成す集団が、個々人の性差にかかわりなく、同一方向を向き、同時にステップを踏む。ラインダンスは互いに身体的接触がなく踊られる。古い「ラインダンス」においては、ダンスを踊る人が向きあうとか、「ライン」が丸いとか、あるいは「ライン」で踊る人の全員がリーダーのあとに従ってダンスフロア―を移動するとかした。また、横の人同士で手をつなぐというのもあった。

   意訳です。最後の "while holding the hand of the dancers beside them"というのは、文法的にはなんで "hand" が単数形なのか理解に苦しむのですが、これこそ文明堂劇場的なラインダンスを包含する記述と信じて訳しました。

     とここまで書いて文明堂の劇場は何劇場だったかしら、と自分の過去の記事を見に行ったら、ちどりさんからトラックバックとコメントをいただいているのに気付きました。

ラインダンスを語れ!(ちどりん日記〜OSKが好きなのだ〜 2008-08-26 20:12)

&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; いやー、ラインダンス論議がすごいことになっていますわ。 写真は左:1952年(昭和27年)大劇「秋のおどり 日本一桃太郎」から「鬼のロケット」(1953年発行カバヤスクールグラフ「あこがれの星座」より)…[続く]

まだまだ「レビュー・オブ・ラブ」(ちどりん日記〜OSKが好きなのだ〜 2008-08-26 20:09)

1992年あやめ池春季公演「レビュー・オブ・ラブ」の販売版の映像を見せていただいた。

   ラインダンスについて定義から徹底的に語りあった記事ということで、できるかぎりリンクやコメントを拝読させていただきました。モーリちゃんの父としては「おおスザンナ」からふらふらと舞うようにして東部から南部へ、そしてサザンからウェスタンへとひらひらしたので、さらに西へ海を渡って日本のラインダンスに関して蘊蓄を傾ける知識も、地に足のついた議論の用意も、なにもないのですが、勉強させていただいたのでちょっとだけ紹介がてらに問題点を書かせていただき、辞書的な注釈をつけくわえさせていただきたいと思います。

  日本のラインダンスの起源については、とりあえず、このあいだの記事で「日本におけるラインダンスの歴史を詳しく語っているのですが、冒頭の、ロケット=ラインダンスのところだけ引用します」 と書いた 「All About OSK #01 [ロケット] 基礎知識からマニアネタまでOSKに関するトピックスいろいろ」  〔NewOSK*fan magazine〕のまとまった記述を引用しておきたいと思います。――

ロケットの語源は?

ショーのなかでダンサーが一列になって脚を上げるダンスがいつごろから始まったのかはさだかではありませんが、それを有名にしたのはニューヨークの ラジオ・シティ・ミュージック・ホールのダンスチーム「ロケッツ(Rockettes)」です。ロケットダンスという言葉はここから生まれました。

1922年、ブロードウェイで大ヒットしたレビュー「ジーグフェルド・フォーリーズ」を見たラッセル・マーカートはジョン・テイラー振付 の「テイラー・ガールズ」のダンスに刺激され、もっとスタイルが揃っていて、複雑なステップと、高い脚上げ(eye-high kicks)ができることを目標に1925年に「セントルイス・ミズーリ・ロケッツ」というダンスチームを作りました。このチームがアメリカで評判にな り、1932年からラジオ・シティ・ミュージック・ホールで公演を行うようになったのです。

セントルイス・ミズーリ・ロケッツはラジオ・シティ・ミュージック・ホールの前にもブロードウェイの様々な劇場で公演を行っていました が、ロキシー劇場のオーナーはことに彼女たちを気に入って、劇場に合わせチーム名を「ロキシエッツ(Roxyette)」と変えました。本拠地をラジオ・ シティ・ミュージック・ホールとしてからも、しばらくはロキシエッツと呼ばれていましたが、やがて女性形の「ロケッツ」に改名し、今に至っています。

日本のラインダンス

高木史朗の『レビューの王様 白井鐵造と宝塚』によると、1927年(昭和2年)に宝塚歌劇団で上演された日本初のレビュー『モン・パリ ~吾が巴 里よ~』のラインダンスではまだ脚上げがなかったそうです。現在のように揃って脚を上げる形になったのは1930年(昭和5年)の『パリゼット』からとの こと。ラインダンスが売り物となったのは1935年(昭和10年)にNDT(日劇ダンシングチーム)が生まれてから、という記述もあります。

NDTは当時の日劇支配人・秦豊吉によってラジオ・シティ・ミュージック・ホールのロケッツをお手本にして結成されました。また、「ライ ンダンス」という言葉そのものも秦豊吉によって作られ、1936年(昭和11年)のNDT第8回公演『日劇秋のおどり』で初めて使われたそうです。NDT 結成以前にもダンサーが列になって踊る場面は珍しくなかったようですが、ロケッツやそれを模したNDTのラインダンスは、脚を上げる回数をはじめとして、 高さやスピード、タイミングの揃い方などが、それまでの「振付の一部としての脚上げ」とは一線を画していたために評判を呼んだのではないでしょうか。

大阪松竹歌劇団の「ロケットガールズ」

さて、OSK関係の資料で最初に「ロケット」の名称が出現するのはまだ大阪松竹少女歌劇団(OSSK)と呼ばれていた時代の1938年(昭和13 年)です。『OSK50年のあゆみ』には1938年の『春のおどり』の説明文に「この公演より新しく“松竹ロケットガールズ”の名称が誕生し、従来のラインダンスより一歩前進した」とあります。この「ロケットガールズ」は、東京の帝国劇場で行なわれた松竹楽劇団の立ち上げ公演に参加しています。他の出演者は秋月恵美子、笠置シヅ子、小倉みね子ら、東西の松竹歌劇のスターや、アメリカ帰りでタップダンスの第一人者の中川三郎などそうそうたる面子です。当時の帝劇は芸術性の高いクラシックやオペラの公演が中心で、レビューやタップダンスなどの上演はそう簡単なことではなく、それだけにこの公演にかける松竹の意気込みは大変なものだったようです。

   ここで、第一に、「ロケット」として知られる日本のラインダンスの「ロケット」のほうの由来はアメリカにあること、第二に、しかし「ラインダンス」は秦豊吉がつくった言葉であることが記されています。それから、第三に、歴史的な流れとしては、(1) 1927(昭和2)年の日本初のレヴュー『モン・パリ』では脚上げがない(が「ラインダンス」の実態はある)、(2) 1930(昭和5)年の『パリゼット』から揃って脚を上げるかたちができる、(3) 1936(昭和11)年の『日劇秋のおどり』で「ラインダンス」ということばが初めて使われたそうだ、(4) 1938(昭和13)年の大阪松竹少女歌劇団の『春のおどり』で松竹ロケットガールズが生まれた。

   さて、ちどりんさんの、昨年2007年2月22日の「まだまだ「レビュー・オブ・ラブ」の本文とコメントでは、日本のラインダンスについての検討が行なわれています。そのなかでリンクされているちどりんさん自身の「本格ラインダンスはいつからか?」という2006年9月10日のブログ記事が興味ぶかかったです。また、コメントのひとつでは、昭和12年11月に大型ラインダンス<ロケットガールズ>が誕生した、という、パンフレットからの情報が記載されています。そうすると、OSK 関係としてはロケットガールズは1937年11月に結成され(練習を積み)、翌年の『春のおどり』で公にデヴューしたらしいことが推測されます。

   しかし、コメントでの議論としては、ロケットの始まりではなくてラインダンスの定義から始めないとということになって、(あしをあげない場合もある)レビューの幕間に演じられる、統率の取れた、ラインになったダンス、という定義や、ラインダンスが劇団によって意味づけがちがうことや、ラインダンスに脚上げの意味が付与されてしまっている歴史的文脈やら、さらに欧米の源流を考察する必要性などがあれこれと話しあわれることになります。

   いっぽうやや最後のほうは並立するかたちで、3月3日付の日記(ブログ)「ラインダンスを語れ!」が議論の場を提供するかたちで書かれ、そこでは日本のラインダンスについての話と同時に、夏時雨さんがWikipedia や海外のline dance に触れ、3月6日に「まだまだ「レビュー・オブ・ラブ」」にトラックバックされた夏時雨(裏帳簿)さんの「ラインダンスとLinedance(もしくはLine Dance)にRockettにKickline」 のほうでラインダンスのひろがりというかが英語版Wikipedia の"Line dance" の説明とYouTubeの映像(この最初のオーストラリアの女の子たちのラインダンスは2007年のTamworth の大会ですね――いちおう参照「August 21 オーストラリアのラインダンス事情―― 振り付け (Choreography) について」)とともに提示されて議論されることになるのでした。

   さて、モーリちゃんの父が付け加えられるのは、以下の辞書的情報です。

   最大の英語辞典であり、かつ歴史原則 Historical Principles を採用している『オックスフォード英語大辞典』 (OED)  を調べてみました。歴史原則というのは、かんたんにいうと、言葉の意味や発音や形態を、古いところから記述し、同時にそれにみあうように、見つかった限りで最も古いところから実際の用例を記載して示す、というようなスタイルです。ふつうは話し言葉のほうが書き言葉に先行するわけでしょうけれど、文献に見つかった最初の例が「初例」ということで、言葉のおおまかな誕生や変遷や死滅のあとが看てとれる、ということになります。

   はじめにリストだけ掲げて、記事をあらためて歴史的に検討させてください。n. は noun で名詞、v. は verb で動詞です。冒頭の年号は、OED における初例の年です。

1961     line dance, n.

1990     line dance, v.

1928     line dancer, n.

1930     line dancing, n.

   あ、タイトルのフォークダンスはどこに・・・・・・?   (1) とします。つづく~♪

 

カリフォルニア時間2008年9月10日付記――

「August 29 ラインダンスとフォークダンス (2)  Line Dances and Folk (2)」 〔"line dancer" "line dancing" という英語は1920年代からあったことについて、ジョン・ティラー (ティラーズ)とラッセル・マーカート(ロケッツ)について〕

「August 30 OED のまとめ――ラインダンスとフォークダンス (3)  OED, QED: Line Dances and Folk (3)」 〔英語の "line dancer" "line dancing" "line dance" と日本語の「ラインダンス」の関係について〕

「August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4)」 〔ラインダンスが身体的接触や性差を避けるようになったことと少女歌劇について〕

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August 29 ラインダンスとフォークダンス (2)  Line Dances and Folk (2) [スザンナ周辺]

August 29, 2008 (Friday)

August 28-29 ラインダンスとフォークダンス (1)  Line Dances and Folk (1)

のつづきです。

    オックスフォード英語大辞典で "line dance" をうちに含むことばとして4つ記述があり、引用例の初出の年度で並べると次のようになります。


1928     line dancer, n.

1930     line dancing, n.

1961     line dance, n.

1990     line dance, v.

 

  さて、(1) のあと、OED からの引用はどのくらい許容されるだろうか、とかOED の特殊文字ってそのまま出るのだろうか、とか、コピペじゃくて書き写すのはめんどうだな、とか悩んだのですが、著作権についてはよくわからないので、ブツ切れで引用しておおむね自分の言葉で語り、むしろ著作権が及ばない用例のほうをきちんと引用して言及しようと思います。

  1928年初例の "line dancer" ということばについて、まず、語源的には line + dancer として、ただし のちの LINE DANCER と すぐのちの LINE DANCING も参照、と書かれています。意味(定義)としては "A person who participates in line dancing." (「ラインダンシングに参加する人」と、その、のちの "line dancing" が使われちゃったりしています(これは論理的には辞書記述としての純粋性を欠いているといえば欠いているのですが、難解じゃないから、ということで、許容されるところだと思います)。初例は1928年8月12日のNew York Times 7ページ―― "There is no denying that the days of the line dancers are numbered." なんのことやらわかりませんが「ラインダンサーの時代は終わりが近いことは否定できない」みたいなかんじでしょうか("days are numbered" は「余命いくばくもない」みたいな意味の決まり文句です)。そのつぎのは1978年のNew York Times なのですが、歴史的な内容を含んでいます―― "Line dancers, as the Rockettes have been called, were not new . . . in 1925.  日本のロケットあるいはロケットダンスの由来とされるニューヨークの ラジオ・シティ・ミュージック・ホールのダンスチーム「ロケッツ(Rockettes)」は1925年に結成されたということは、前の記事に引用した「All About OSK #01 [ロケット] 基礎知識からマニアネタまでOSKに関するトピックスいろいろ」  〔NewOSK*fan magazine〕でも書かれていたことですが、そのロケッツのダンスについて、「ロケッツはラインダンサーズと呼ばれてきたが、ラインダンサーというのは1925年の時点で・・・・・・新しいものではなかった」。最近の2002年が用例の最後ですが、そこではどうやら壇上での一列のラインダンスからいまふうのウェスタンふうのラインダンスへの変化のことが書かれているようです(Variety 9月3日号)―― "Show gave way to pageantry―riders in formation, wearing Australian-flag drizabones (bush all-weather jackets), the saw-dust-covered arena filled with line dancers, horse and buggy stunts."  drizabone はカッコ内に説明がありますけれど、オーストラリアのブッシュの住民が着用する防水コートのことです。オガクズをしいたアリーナがラインダンサーでいっぱいだった、というオーストラリアの様子です。冒頭の "Show gave way to pagenatry" というのは、ほんとはよくわかりません。もしかするとただそれまで、それこそステージ上でショーがあったのが、プログラムが変わってみんなが踊ったというこの催しでの変化を言っているだけなのかもしれません。実はダッシュのあとの文法的なつながりもよくわからないのですけど・・・・・pageanty と同格で名詞句が並んでいるのでしょうか。

  1930年初例の "line dancing" では、まず、語源的には 名詞のline + 動名詞のdancing、ただしのちの LINE DANCE とすこし前の LINE DANCER を参照、とあります。 "The action or practice of performing a line dance or line dances."  (ラインダンスを演じる行為ないし実践)。初例は1930年1月12日のNew York Times― "As if in expiration of what his fellow-countryman, Mr.Tiller of Manchester, did in flooding the country with line dancing in imitation of his once unique troupe of Tiller Girls, [etc.]" ここでもまた固有名詞が出てきます。Manchester のTiller と Tiller Girls。実は、これも「All About OSK #01[ロケット]」に、「テイラー」というちょっと誤った表記で記述されています。引用します。――

1922年、ブロードウェイで大ヒットしたレビュー「ジーグフェルド・フォーリーズ」を見たラッセル・マーカートはジョン・テイラー振付 の「テイラー・ガールズ」のダンスに刺激され、もっとスタイルが揃っていて、複雑なステップと、高い脚上げ(eye-high kicks)ができることを目標に1925年に「セントルイス・ミズーリ・ロケッツ」というダンスチームを作りました。このチームがアメリカで評判にな り、1932年からラジオ・シティ・ミュージック・ホールで公演を行うようになったのです。

John TillerはWikipedia に項目があります(John Tiller, wikipedia)。生まれは1854年と書かれていますが、没年の記載はありません(たぶん1925年)。英国マンチェスター生まれ。Wikipedia には Tiller Girls という項目もあるのですが、この "John Tiller" から最初のティラー・ガールズ誕生の様子を描いたところを引用しておきます。――

John Tiller carried on presenting dancers in an amateur capacity. With this taking up more and more of his time, it made it hard for him to concentrate on making a living in the cotton industry. By this time his real interest was with the theatre and dance and he was getting bored with his chosen career. In 1890 John was asked to present a quartet of children for the pantomime Robinson Crusoe at the Prince of Wales Theatre, Liverpool. He chose four of his best Manchester pupils, all aged about 10 years: Dolly Grey, Tessie Lomax, and twins Cissy and Lilly Smith. They were chosen as they were all the same height and had the same very slender shape with dark hair. He worked with them relentlessly repeating every movement time and time again until they were perfect. He worked them so hard that at times they were so exhausted they had to be carried home by their parents- their feet too blistered to walk.

John was striving for absolute precision in dance. These were the first of thousands of Tiller Girls where every movement had to be perfect and every turn had to be simultaneous. The routine was not the high-kicking dance that they were later to be remembered for.

He rehearsed them in a burlesque routine and a “Coconut dance” popular at the time. The pantomime lasted for three months with every show generating glowing reports in the newspapers and receiving awards for the girls and their manager. The fee received for this only barely covered expenses and costs. This first experience helped John make up his mind to become a professional manager.

本業のかたわらダンスを子供たちに教えていたのですが、1890年にリヴァプールの劇場でのパントマイム劇『ロビンソン・クルーソー』に4人の子供の出演を依頼されます。自分の優秀な生徒のなかから同じ体格、同じ髪の色、同じ年の4人(うちふたりは双子)を選出し、特訓を重ねる。で、4人はまったく同じ動きを完璧に同時にこなせるようになったのでした。このときに、のちにジョン・ティラーが有名になる「ハイキッキング」は含まれていなかったのですが、これがティラー・ガールズの最初だったといってよい。

このあとの記述として1890年代の終わりまでには、互いに腰をまわすことで安定した正確な "high kicks" を演じられるかたちを考えたこと、 それからアメリカでの公演の最初は1900年、New York City にダンス練習教室を開いたこと、ニューヨークでの全盛期にはGlobe Theatre に The Lolipops と The Sunshine Girls、そしてZiegfeld Follies 内に 24 Tiller Girls と、3つのTiller Girls 軍団がいたこと、などが書かれています。

"Tiller Girls" の項目のほうでは、今日 "precision dancing" と呼ばれるものの先駆者だとか、"Tap and Kick" はもともとは "Fancy-Dancing" と呼ばれたとか、ショーによっては32人の line-up だったとか、もろもろの情報のあとに、Radio City Rockettes との関係が書かれています。――

The Radio City Rockettes Connection

Russell Markert, founder of the Rockettes quoted;

"I had seen the Tiller girls in the Ziegfeld Follies of 1922," he reminisced, "If I ever got a chance to get a group of American girls who would be taller and have longer legs and could do really complicated tap routines and eye-high kicks, they'd knock your socks off!"

Many a Tiller girl would be a little offended at this remark as many of the Tiller Ballet and Tap Routines have never been replicated with such precision. However the Rockettes Kick routines today are precision dance at its very best, original and real entertainment.

The Rockettes first kicked to life in 1925 as the "Missouri Rockets" and made their show business debut in St. Louis, the realization of a long-time dream of their creator, Russell Markert.

It is known that some of the Tiller Girls and American girls who trained with Mary Read 〔この人はニューヨークの教室を任された女性です〕 were also involved in the Rockettes, one girl Lily Smart who trained with the Tiller School of Dance in Manchester and was with the 1922 troupe in the Ziegfeld Follies, she settled in America and Joined the Rockettes, she was with them for many years. Russell Markert added his own style to the Precision Dance routines; this found its way back to the Tiller girls in the United Kingdom.

Girls that had visited the USA during the late 1930s and 40s danced for the Troops and liked the American style of dancing and the costumes with head dresses they saw. American films also showed showgirls and had a big impact on the British audience. From the late 1940s through the 1970s the Tiller girls adopted a lot of the American Showgirl styles that could trace their roots back to the “Les Folies-Bergère” in the late 1890s.

 

脱線が過ぎました。1930年の用例でした。"As if in expiration of what his fellow-countryman, Mr.Tiller of Manchester, did in flooding the country with line dancing in imitation of his once unique troupe of Tiller Girls, [etc.]" この時点で John Tillerは亡くなっています。この引用、主語がないように見えるのですが・・・・・・むかしのOED はあんまりこういうことはなかったような・・・・・・。なんだかよくわかりませんが、 "his fellow-countryman" は Mr.Tiller ですから、"his"と代名詞で受けられている主語がどこかにいるはず、それはTiller と同国人だから英国人のはず、それは誰なんでしょう???  "his once unique troupe of Tiller Girls" の "his"はTiller で、昔はJohn Tiller のTiller Girls がユニークな劇団だったのが、Tiller が息をひきっとったのちにそれを模倣するラインダンシングが洪水のように席捲したのだった、みたいな文意だと思われるのですが。あ、ラッセル・マーカートがロケッツをつくるのが1925年ですから、彼のことを言っているのですかね。〔すいません、自分でうつし間違えてました。expiration ではなくて expiation (罪滅ぼし、贖罪)でした。〕

  と、ここで一息いれます。

 

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JohnTiller のひまごにあたる方がつくっているTiller Girlsのページをご紹介します。――

The Tiller Girls & Tiller School of Dance <http://www.tillergirls.com/index.htm>  いろいろな歴史的画像や記事を含んだリンクがあります。

 

それから Russell Markert は91歳で1990年に亡くなっていました。 "Russell Markert, 91, the Founder And the Director of the Rockettes" By PETER B. FLINT <http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C0CE3DF1430F930A35751C1A966958260> 〔The New York Times, December 3, 1990〕コネティカット州の病院で亡くなっていますが、生まれについては・・・・・・、あ、"born on Aug. 8, 1899, in Jersey City" とありますNew Jersey じゃニューヨーク市の向かいでアメリカじゃん。ううむ。ロケッツについても書かれている前半の部分を引用しておきます。――

Russell Markert, the founder and longtime director of the Rockettes, died on Saturday at Waterbury Hospital in Connecticut. He was 91 years old and lived in Heritage Village in Southbury, Conn.

From the opening of Radio City Music Hall in Rockefeller Center in 1932 until Mr. Markert's retirement in 1971, he was the chief choreographer, image-preserver and resident father-figure of the famous troupe of tall, svelte women.

In the era when the Music Hall played to full houses every day of the year, he trained and rehearsed 2,500 Rockettes, young women who had to be 5 feet 5 inches to 5 feet 8 inches tall, with pretty faces and shapely figures who were adept in ballet, tap and soft shoe and able to kick at least 6 inches over their heads.

Besides "exceptionally limber kicks," Mr. Markert said in 1967, he also required applicants to have a background in modern jazz, the ability to pick up new steps quickly and a personality that not only projected from the stage, but also merged into the ensemble. Intuitive Mathematics

A Rockettes routine usually originated in a dramatic concept or an evocative piece of music. Mr. Markert and an associate director then worked out the floor patterns and step combinations, relying on what he described as a kind of intuitive mathematics.

あ、最後の部分も引用しておきます。――

The innovative and effervescent choreographer was born on Aug. 8, 1899, in Jersey City, where he attended public schools and began to study dance. In World War I, he served in the Army Quartermaster Corps in France and, in his free time, performed in military shows.

Mr. Markert began his professional career on Broadway, graduated from the chorus to dance director of the annual revue "Earl Carroll's Vanities" and, in St. Louis in 1925, founded a women's precision troupe called the Missouri Rockets.

While playing in Manhattan, the group was spotted by the impresario S. L. (Roxy) Rothafel, who headlined them at the Roxy Theater as "The Roxyettes." They moved to the Music Hall for its 1932 opening and soon became the Rockettes. In 1937, the troupe appeared at the Paris International Exposition, competed with Europe's leading dance companies and walked off with the grand prize.

Mr. Markert leaves no immediate survivors.

   最後の一文は、近親者なし、という意味でしょうか。

 

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August 30 OED のまとめ――ラインダンスとフォークダンス (3)  OED, QED: Line Dances and Folk (3) [スザンナ周辺]

August 30, 2008 (Saturday)

あ、またフォークダンスへの言及がなかった、と思いつつもつづきです。

Tiller Girls line up.jpg

The Tiller Girls at the London Palladium 1950 <http://www.tillergirls.com/Tiller_Page_2.htm>

辞書の見出しに出てくる順に並びなおすと、


1961     line dance, n.

1990     line dance, v.

1928     line dancer, n.

1930     line dancing, n.

で、オックスフォード英語大辞典の初例の順序で2番目の "line dancing" の記述から前回はだいぶ脱線してしまいましたが、 これの用例の最後は2001年で、 C. Glazebrook, Madolescents 64: "They've just got back from the stupid line dancing down the Labour Club." です。 "madolescents" なんて聞いたこともない言葉で、たぶん小説だろうな、とあたりをつけて調べてみると(ほんとうは本のOED の巻末のBibliography を見れば、書誌情報がある程度は得られるはずなのですが)、モーリちゃんの父の好きなWorlCat ではChrissie Glazebrook がロンドンの William Heinemann から2001年に出した小説で、 The Madolescents. ジャンル的には "Juvenile delinquents--Fiction."  初版のあとにいくつか版があり、ISBN は 0434008869 9780434008865 0434009857 9780434009855.  などの情報を得ました。Amazon.com では初版は絶版で、2002年にArrow という出版社から出た400ページのペーパーバックが売られています。イギリスの不良のお話のようです。ということで確認したのですが、思ったとおりに、これはクラブでの(自分で踊る)ラインダンスのことです。

さて、line dance ということばは見出し語 line dancing (正確に言うと、OED の初版に入れられた語彙でも2版で入れられた語彙でもなくて "NEW EDITION draft entry" という区分で入っているのですが――そしてそれは4つとも同様なのですが)の定義内で使われているとはいえ、OED の用例でいうと戦後に名詞・動詞ともに出てきます。

まず名詞のほうは 名詞のline + 名詞のdance で、先行する(earlier) LINE DANCER と LINE DANCING を参照と書かれています。定義は "Any of various dances, esp. folk or country dances, in which multiple participants are arranged in one or more lines."  (複数の参加者が1ないし2以上ののラインに並ぶさまざまなダンス、特にフォークダンスまたはカントリーダンス)と書かれています。 用例ですが、・・・・・・よくわからない。わからないのでおおむねそのまま書いてしまいます、ここは。 1961 T. Petrides & E. Petrides, Folk Dance of Greeks13: "Thrace and Macedonia. . . Hassapiko. . .  (Line dance)."  1968 B. R. Buckley in T. P Coffin, Our Living Traditions xii. 139: "Round-dance, square-dance, line-dance figures were all used in the play-party.  1988 P. Manuel Popular Musics Non-Western World (1990) v. 158: "Lebanese traditions such as the dabkah line dance."  2001 Billboard 4 Aug. 81/2: "What has taken the [honky-tonk] name are the meat market, Village People, rap music, fern country, line-dance bars. Given my druthers, I'm much more at home in the bare-bones, often rank-smelling alternative rooms."    フォークダンスから、最後の用例のクラブ(バー)でのラインダンスまであるというのはわかりますが、歴史的な展開はぜんぜんわかりません。

そして動詞のほうは、名詞の line + 動詞の dance ですけど、 "after LINE DANCE (n.), LINE DANCER (n.), LINE DANCING (n.)" というような感じで語源というか語の派生が書かれています(そんなに並べられても困るけどw)。要するに名詞のline dance、さらにその前からあった名詞のline dancer そして名詞のline dancing にしたがうかたちであとから出てきたのが動詞のline dance だと。定義は "To participate in a line dance" (ラインダンスに参加する)。で、用例は新しいです。 1990 のフロリダの St. Petersburg Times から "Hilda Hubble effortlessly line danced, holding her arms just so and gliding around the linoleum floor.  1993年のカナダの雑誌から "It is high noon on Friday and the class is packed. . .  But today isn't normal: we are here to line dance." という用例。2000年10月8日のWashington Post (電子版) も同じく金曜の夜の描写で "On Friday night, hundreds played pool, country line-danced and then watched five people go up against the horned and burly beasts."

以上が歴史原則を誇るOED の記述です。モーリちゃんの父の印象では、あんまり信用できないな、というのと、記述が不完全というのとあります。そもそも初例がほんとに歴史を正しく反映しているのかという疑問がある。New York Times に集中しているというのもなんだかあやしげだ。まあ、新聞は世の中のことばの使用をたぶんにストレートに反映しているというのはわかるけれど、New York Times のArchive がウェブに存在するようになったことと無関係なのだろうか。あまりにテキストが多くなって、古英語とか中英語の時代のように、限られた数の正典キャノンが徹底的に学者によって調べられるというような時代ではとうの昔になくなっているというのはわかるけれど、それこそリチャード・ブリッジマンみたいにパソコンは使わずにこつこつとカードやメモで築き上げられてきたのが、初版の企画から全巻完結までに50年を要したOED という辞書の伝統だと思っておったし、引用については適切でコンパクトで意味が通るように心がけられたと思うのだが。それでも、この4つのことばの記述には相互参照cross reference があるのだし、専門的な知性が表にだけでなく裏側にも働いていると信じよう。そうすると、やっぱり、名詞と動詞(句)の "line dance" の使用と、 "line dancer" "line dancing" の使用とのあいだには、意味上の関係はありながら、時間的な懸隔(あれ、ケンカクって変換しないの? 死後か?)、へだたりがある、というのがOED の教えるところ、ということになります。

Rockettes.jpg

The Radio City Rockettes

しつこいですが、あらためてよっつを並べてみます。(しつこいですが、頭の年号はあくまでもOEDの初例の年です)。

1928     line dancer, n.  "A person who participates in line dancing." (ラインダンシングに参加する人)

1930     line dancing, n. "The action or practice of performing a line dance or line dances."  (ラインダンスを演じる行為ないし実践)

1961     line dance, n. "Any of various dances, esp. folk or country dances, in which multiple participants are arranged in one or more lines."  (複数の参加者が1ないし2以上ののラインに並ぶさまざまなダンス、特にフォークダンスまたはカントリーダンス)

1990     line dance, v. "To participate in a line dance" (ラインダンスに参加する)

そうすると、"line dance" ということばが使われる前に、ことばとしてはあたかもそれの派生語であるかに思われる(これはモーリちゃんの父の感覚ですけれど) "line dancer" と "line dancing" があった。その1920年代の「ラインダンス」は、戦後に「ラインダンス」という言葉が意味するさまざまな踊りにおける「ラインダンス」のなかの、限定されたもの、つまり(そこまでOED は記述していないけれど用例や時代を考えれば)「横一列に並んだ踊り手たちが音楽に合わせて一斉に、振付けられたステップのパタンに従って踊る」タイプのラインダンスだった(ここで「」に引いた説明は『リーダーズ英和辞典』の "line dancing [dance]" の記述です。リーダーズではこの見出し語がリーダーズプラスで加わって、派生語としてハイフンでつないだ一語の "line-dance" (自動詞)、それと"line dancer" を定義なしで並べています。dance がブラケット [ ] に入っているということは line dancing = line dance という意味です。逆にいえば、リーダーズの記述は最近のカントリー的な line dance をカヴァーしていません)。

ま、そんなところです。そんなところがモーリちゃんの父に付け加えられる情報です。

ラインダンスとLinedance(もしくはLine Dance)にRockettにKickline」 (裏帳簿 2007.3.6)のコメントのなかで、松さん(このかたは「All About OSK #01 [ロケット] 」  〔NewOSK*fan magazine〕のまとまった記述をしているかただとお見受けします)が、『大辞泉』の「ラインダンス」の記述、「《和line+dance》レビューで、大勢の踊り子が1列に並んで脚の動きなど>をそろえて踊るダンス。◆英語ではprecision dance」に言及されています。アメリカのロケッツにならってつくられた日劇ダンシングチーム(NDT) の「ラインダンス」は日劇支配人だった秦豊吉によってつくられた言葉とされており、和製英語とされている。これについて勝手ながら思うことを述べます。

1920年代、1930年代に、アメリカで "line dancer" や "line dancing" という言葉があったことは明らかです。そしてそれは Tiller Girls や Rockettes についてまさに使われる言葉としてありました。

和製英語の定義は『広辞苑』だとこうです――「日本で(英語の単語を組み合せて)作った英語らしく聞える語。「オフィス-レディー」「ナイター」の類。

さて、OED を信じれば、line dance という名詞、動詞は戦後になって出てきます。だから、1920年代には、line dancing と呼ばれたけれども、line dance とは呼ばれなかったことになります。

では「ラインダンス」は和製英語だったのでしょうか。英語のほうでline dance が名詞になる、だからのちには和製英語じゃなくてほんとの英語になるけれど、それに先んじて日本人によってつくられた言葉だったのでしょうか。

類推的にモーリちゃんの父に考えられるのは skating とか figure skating です。"skate" という英単語は名詞としてはふつうは「スケート」の意味にはなりません、靴をさすのであって、行為としてのスケートは skatingです。ただしskate は、動詞としては「スケートをする」という意味になります。"figure skate" も「フィギュアスケート靴」の意味であり、行為・競技としての「フィギュアスケート」(もっともリーダーズ英和辞典は「フィギュアスケーティング」と訳してますけれど)は "figure skating" です。ただし比較的新しいことばとして動詞の "figure-skate" があり、その動詞よりも前から "figure skater" という名詞があります。

じゃあ、スケーティングが正しいので、スケートは和製英語だ、ということになるのでしょうか? 

自分の感覚ではなりません。

Tillers 1.jpeg

<http://www.tillergirls.com/Tiller_Girls_Page.htm>

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August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4) [スザンナ周辺]

August 30, 2008 (Saturday)

Tiller Girls 1891 Oldest .jpg

The Tiller Girls (1891)  左から3人目は Madge Vernon、5人目は Bessie Cohen <http://www.tillergirls.com/Tiller_Page_2.htm>

   ラインダンスについては、"line dancing" にせよ "line dance" にせよ、アメリカ起源のことばではないかという感じが強いのですけれど、「横一列に並んだ踊り手たちが音楽に合わせて一斉に、振り付けられたステップのパタンに従って踊るラインダンス」にせよ「複数の踊り手がラインに並ぶさまざまなダンス、特にフォークダンスまたはカントリーダンス」にせよ、あるいは「同時に同じステップ・シークウェンスをラインに並んだ複数の踊り手が繰り返す振り付けられたダンス」にせよ(以上、順に、リーダーズ、OED、Wikipedia の主旨をまとめなおしたもので権威はありません)、アメリカでおそらく1920年代に "line dancing" や "line dancer" なる言葉が作られる以前から実態として存在したと想像されます。イギリスのTiller Girls や、Tiller Girls と相互に影響をあたえあったのだろうと考えられるフランスのカンカンとか、女性コーラスラインの踊りはあったわけでしょうから。

  で、ここで脚上げ問題に戻ることはせずに、もともと(1) で書こうとしていたことを、その後の考えも含めて、 忘れないうちにメモしておきます。

OED の "line dance" の記述にまったく欠けていて、Wikipedia の記述にあるのは、性差に無関係に並ぶ("without regard for the gender of the individuals")ということと、身体的接触がない("Line dancers are not in physical contact with each other")という点です。このふたつは冒頭のややアバウトな感じもありますが定義めいたところに書かれています。そうして、 "History and culture" の項では、歴史的な記述が、folk dance を引き合いに出してなされます。――

Line dance is sometimes thought of as originating in the Wild West. In fact, it has a much more diverse background. Many folk dances are danced in unison in a single, nonlinear "line", and often with a connection between dancers. The absence of a physical connection between dancers is a distinguishing feature of country western line dance.

そのあと、日本語のウィキペディアの「ラインダンス」とはちがって、古いところからのラインダンスの(といってもカントリーウェスタンとつながる1970年前後のディスコ時代からのですが)展開が、音楽との関係で書かれています。しかし、とりあえず今モーリちゃんの父に面白いのはこの性と肉体接触の問題です。訳します。

ラインダンスは、ときに、西部に起源をもつと考えられている。実は、もっとずっと幅広い背景を有している。多くのフォークダンスは、一本の、直線でない「ライン」で一斉に踊られるもので、しばしば踊り手同士の接触が存在する。踊り手同士の身体的接触の欠如はカントリーウェスタン系のラインダンスの際立った特徴である。

  まあ、言葉足らずといえば言葉足らずなので(ヒトのことは言えない)、 文意がよくわからない感じがなきにしもあらず。同じ動作を全員が行うという点でフォークダンスとの類似を見つつ、しかし体が触れ合わない、というところが違うということでしょうか。それと西部はどう関係するのかは不明。実際のところモーリちゃんの父には知識がありません。植民地時代のアメリカで、たとえばメイデイの祭りとかでフォークダンスを踊っていたのは知っています(見たんかい)。ただそれは旧世界からもってきた伝承の踊りでした。

  で、ここからモーリちゃんの父の妄想です。さて、フォークソングとフォークダンスとは違います。けれども、どちらも観念としては民衆のなかに育まれたものという感じがあります。歴史のない移民の国アメリカにはフォークソングもフォークダンスも、だから、実はなかった。スティーヴン・フォスターは、そういうアメリカにフォークソングの芽をまいた人でした。「June 22 おおカリフォルニア!(1) おおスザンナ! (1) Oh! California Oh! Susanna 」以来あれこれ書いてきたフォスターの初期のヒット作「おおスザンナ」は、ちょうどゴールドラッシュの時期と重なって、西部へ向かった人々の愛唱歌となり、また、スザンナポルカというフォークダンスのかたちで踊られたのでした。ま、ここまではほぼ妄想ではないですねw

  スザンナポルカの映像(August 14 スザンナ・ポルカ Susanna Polka)を探しているときに、多量に見つかったのが「おおスザンナ」のカントリー的なラインダンスの映像でした(August 15 おおスザンナ・ラインダンス Oh! Susanna Line Dance)。そこでは南部が西部へ転換し、Rednex の歌詞にいたっては、女が sweet cowboys を探して、一緒に踊ろうよ、と歌っているようでした(August 17 レッド・ネックスの「おおスザンナ」とウェスタン Rednex, "Oh Suzanna" and the Western)。この性差の問題については、たまたまSue さんが「おおスザンナ」を歌っているビデオをとりあげたとき (August 21)に "A Boy Named Sue" というジョニー・キャッシュの曲をたまたまとりあげましたが、それをタイトルとして カントリー・ミュージックにおける性差の問題を論じた論文集が出ていることを知りました――A Boy Named Sue: Gender and Country Music (University Press of Mississippi, 2002: ISBN 978-1578066780)。

  男性的なものであったウェスタンあるいはカウボーイを女がのっとること。あるいは男性性を女性化すること。あるいは男性と女性という区別をなくす(かのようにふるまう)こと。

  フォークダンスは、小学校を思い出しても、男と女の数を合わせて交互にもしくは向かい合って組んで踊ったような踊らなかったような(どっちなんじゃい)。あ、男子と女子の数があわないと女になる男や男になる女の子がいたような気もします。そして、手と手を絡ませるのでした(ははは)。そういう人間的エロスを排除した(と一見見える)のが、カントリーウェスタンラインダンスの特徴のようです。しかし個々人は同じ動きをするのでした。これはきわめて現代的な個の人間の状況が投影されているようないないような。

    OED を考察したいま、Wikipedia 的な、というか1970年代以降とりわけはやっているいまふうなラインダンスは、舞台上の line dancing から少なくとも言葉としては来ているのだろうな、と考えているのですが、フォークダンスと同様に、肉体的接触と性差問題で、ギャップがあるのでした(もっとも歌手のバックで踊るラインダンスとかは性を考えているように見えますけどね。あたりまえですが、男でも女でもどういう並びでもいいというようなのはあんまりないような・・・・・・あ、TRF が新しいのはそこだったのか。女だけのスーパーモンキーズはMAX として独立し、安室奈美恵が従えたバックダンサーたちは・・・・・覚えていませんw)。

    Tillers とか日本の歌劇団というのは、これはこれでジェンダーフリーのようなジェンダーフリーの正反対のような、不思議な世界ですね。そしてテンネンさんの鏡音レン歌による女性仇打ちソング(July 20 嗚呼スザンナ―― 「おおスザンナ」のあやふやな歌詞などのいろいろ の続き )。

    とまあ、ぜんぜんまとまっていませんけれど、ここまでの断片と見えた記事のつながりぐあいのメモでした。( ..)φメモメモメモ ブログ村 洋書・洋楽・映画の英語

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