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October 31, Nov. 3 メイポールを巡って (2)――ルネサンス・フェアをめぐって (中の続きのつづきの2)   About the Maypole (2): Renaissance Fair (5) [America]

October 31, 2008 (Friday)

   なんでハロウィーンに五月祭のことを書いているのだろうか、という疑問がなくはないが、たぶんそれは自分の性質の根っこのところにかかわるか(いわゆる根性ですか)、あるいは巡りあわせのようなものなのだろう、と思って書いています。

  とりあえず日本語の、とりあえずWEBでの、とりあえずMaypole という表記での、とりあえずグーグル検索で、とりあえず目を通してみました。意外に多かったのでした。そして、ここで、もはや新しいことはない、すべて言われている、というような思いは全然もたなかったのは、自分が能天気だからかもしれないし、ブログを通して引用の性質について学んだからかもしれないし、今日の天気が昨日に続いて雨模様だったからかもしれない。

  エリアーデの「中心のシンボリズム」についてメモを書いたので、気が楽です。「October 31 エリアーデのいう中心のシンボリズム The Symbolism of the Center as Described by Mircea Eliade」 [メモ personal notes]

  さて、木になった、いや気になったのは、 ひとつめは、一般論的に、相も変わらずだけれど、ウィキペディアに依拠して、これが正しいというようなトーンで、しかも場合によっては典拠を示さずに書くサイトの存在であり、ふたつめは、個別の問題として、ファルス解釈の横行です。そして、救われるのは、みっつめとして、いい意味でのイノセントなメイポールならびに五月祭についての記述がWEBにはあって(特に海外在住の日本人のブログにはほほえましいものが多い)、それはファルス、ファルスと吠えるpedantic (衒学的)な文章と対照をなしていることでした。

  急いで付け加えておけば、自分はルネサンス・フェア同様、メイデーの祭を自分で目撃・体験していません。しかし、同じことを何度もくりかえして書きますが、体験しないことについて人は書けないということはない。文学は、作家も読者も、オードリ・ヘップバーン的empathicalismかどうかはともかくemphathy で生きています。感情移入なくして文学なし。そして想像力。 (メイ・デーについてのいちばん印象的な文章は、亡くなった小池K先生が退官後にイギリスの田舎に過ごしたときの随筆ですね。世界軸やらましてファルスやらへの言及などかけらもなく、ただ村の祭りの様子を記述しているだけなのですけれど。そのあたたかいまなざしに、読む自分の視点が重なったときに共有される愛情というのはかけがえのないものだと思わざるを得ません。人の残す文章の生きたチカラというのはそういうものなのだと。そういえば、昔自分がロンドンに行くことになったときに、4月はまだまだ寒いというような話を小岩の中華料理屋で話したのが懐かしい思い出です)。そしてまた、文学的というのは、幸か不幸か、その裏側にへばりついたようにときに批評的criticalということなのだ。 さまざまな分野において、道を分け入れば批評的になるのだけれど、文学が特殊なのは、それがもとから言葉・言語表現にかかわる領域だからに他なりません。だけど批評的であるということが文学的であるということでは必ずしもない、というややこしさがある、ような気がする。

  で、えらそうに言うわけじゃないけれど、「ファロスと世界樹を廻る「メイポール」のリボン踊り」というようなタイトルは

November 03, 2008 (Monday)

    ハロウィーンから1日の諸聖人の日(万霊節)、2日の死者の日(万魂節)と、ブログを書けないほど忙しかったのではないのですが、上のまま途絶えていました。こうやって間をおいて自分の書いたものを見ると、もちろん恥ずかしさが一番にありますけれど、最初の読者は自分であるという気分とともに、いや、自分は自分ではなくてもうひとりの自分であるという気持ちとか、なんだかんだいって書くということはジェンダー的だろうがなんだろうがパフォーマンスだという考えがよぎったり、寒い、原稿用紙の手触りは雪のようだとか、ブログでは書けないな、とかアホなことを思ったりもします。

  さて、 「ファロスと世界樹を廻る「メイポール」のリボン踊り(神話・宗教・民族学)/ヒロさん日記」は2006年5月31日の記事です。新聞記者、広告編集、翻訳・通訳などの仕事を経て英国に在住のHiro-san が、五月にイギリス各地のコミュニティーで「May Fair」が行なわれ、出し物や形式はさまざまだが、中心になるのはメイポールだ、という書きだしで、 準備の手順について、それから、子供の学年のちがいやあるいは子供と大人のちがいで、リボンの巻つけ方のパタンの複雑さに差があることなど説明されます。そのあと英語のWikipedia を引いて、メイポールはゲルマン民族の祭りで、ドイツ語では「マイバウム(Maibaum)」と呼んでいることなど書かれます。そのあと、ちょっと唐突に、「このメイポールの柱が象徴するものは、北欧神話に出てくるユグドラシル(Yggdrasil)という「世界樹」である。これを世界中の神話に広げると、ファロス崇拝(Phallus Worship)につながる。」と書かれて、反・ギリシア神話:男根崇拝(Phallus Worship)」という見出しで引用とリンクが行なわれます。「男根原理は、『メイポールmaypole(五月柱)』や『花嫁の杭』のような聖なる杭や柱として、ひそかに崇拝された。」という出だしの文から日本語としてどうなんや(ひとのことは言えませんが)、という引用元 <http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/phallus.html>なのですけれど、ペダンティックな注は、翻訳書の併記以外は皆外国の書物で、どうやら本文自体がなにかの訳のようです。適当にurlを短縮して探ってみると、どうやら『バルバロイ!』という大きなページのなかの『ギリシア神話・伝説ノート――失われた女神たちの復権』というページの一部のようです。冒頭に「バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』と、その批判のための覚え書き」とあります。え、それってバーバラ・ウォーカー(ウィキペディア)の、翻訳が出ている『神話・伝承辞典――失われた女神たちの復権』 (ISBN978-446901220) すか?  ほとんど使ったことはなかったが、そんなにエロい、いや偏った、いやおもろいものだったのか。この『バルバロイ!』のホームページの目次的な箇所でこのギリシア・神話伝説ノートについては「バーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』(大修館)はじつに興味深い書物だが、たわごとも多い。そのたわごとを一々検証してゆく。」と書かれている。検証がどこにあるのかわからないが、そのままとりあえず筆写したものなのかしら。テキストの正体がとりあえず不明。あまぞんに引かれた、出版社からの内容紹介――「最後の晩餐のパンとブドウ酒は古代の人肉嗜食と共通の根をもつなど、世界の神話・伝承や未開民族の呪術を、最新の神話学的手法でとらえなおす・・・・・・」 

神の化身である生贄を食べる目的は、そうすることによって神の肉体の肉になって、神の聖なる肉体が再生するときに自分も同じく再生できるようにするためであった。キリスト教の聖餐は、原始時代の共感魔術としてのカニバリズムの儀式にその源を発するものではないと言っても、それは通用しない。初期キリスト教時代の秘教というものは、すべて、カニバリズムまがいの聖餐を行えば、祀る者は祀られる者(神)と一体となれるという信念をその中心に持っていたのである。「宗教の初期の段階には、聖餐という形で神を食べることによって、自分も神の一部になれるという固い信念があった。これは疑いないことである。例えばトラキアのディオニュソスの秘儀においては、そうした食事にあずかった人々は神の聖なる生命を自分たちも分かち持つことができるとされ、そのためにその神の名で自分たちも呼ばれることになるのである」(「人肉嗜食(Cannibalism) 」)

・・・・・・やれやれ。ほんものか。通用しないという人に何を言ってもむりだろうけど、だからといって、聖餐式において人はカニバリズムを行なっているとか、メイポール・ダンスの女の子たちははファルスをまわっているとか言うのは、ひどく誤っていると思う。思うだけだから、反論しないでください(誰に向かって言っているやら)。

   さて、「ファロスと・・・・・・」の記事は、そのあと、ケルトの火祭りべルテンに及び、「スコットランドの伝統行事・Beltane・五月祭」(本文のリンクは「このページは作者の引退に伴い、作者自身のサイトに移転しました云々」ということで、現在のサイト名)を参照します。この面白いページは『世界の文化、伝統行事』というサイトの一部のようです。ただ、ひとのことは言えませんが、まとまりがないです(まあそこがおもしろいのですけどw)。

   「ファロ・・・・・・」の記事もおもしろいといえばおもしろいのですけれど、ひっかかったのはタイトルと、それからべルテンの紹介に続けて「男女の裸踊りのほうは、さすがに現在は行われていない(はず)。どこかでやっていたら、見に行きたいものだが。」と書き(ここまではよい)、「このメイポール祭りは、さすがに日本ではないだろう、と思っていたのだが、2つ発見した。」と日本の学校のメイポールダンスのサイトを紹介して文を閉じているところです。もっとも、コメントはあっけらかんとして、うちでもやってましたとか、さまざまな情報が寄せられるし、いいんだけど。いっか(笑)。

☆☆☆

  福岡女学院の法人本部アーカイブの今年の9月11日の記事として「メイクイーンとメイポールダンス」 <http://www.fukujo.ac.jp/houjin/archive/> と題して歴史が書かれていました。アメリカのメソジスト系の宣教師ジェニー・ギールによって1885(明治18)年に創設された学校ですが、9代校長のアメリカ人エリザベス・リーが1916(大正5) 年の創立記念日に始めたもので、それ以来年に1回創立記念日に中学2年生から芽衣クイーンを選んでメイポールダンスを公開しているのだそうです。『中高MISSION News』3号から「福岡女学院のメイクィーンとメイポールダンス」という写真付きの記事が転載されていて、紋付の着物でふとんに座っている初期のメイクイーンの写真や、最初の、やはり羽織はかまのメイポールダンスの写真と説明の文章がたいへん興味深いです。*

   *カリフォルニア時間4日9時追記 このページには創立記念日がいつか書かれていなかったので、調べました。5月18日です。

  ここがエライのは「この記事で参考にさせていただいたサイト。」としてWikipedia (英語の"May Queen""Maypole dance")以外に「・メーデーの由来」と「・ファロスと世界樹を廻る「メイポール」のリボン踊り 」がちゃんと引証されていることです。感心しました。しかしファロスじゃなくてペニスだったら引かんだろうな(どん引き)。

  つまり、たぶん自分が引っかかっていたことのひとつは、ファロスというような普通の人には聞きなれないカタカナことばによって感度が鈍らされちゃおらんだろうか、という疑問です。

  それから、ヨーロッパの人たちのブログ記事もさわやかでした。

"Midsommardagen" 『海木庸子 つくり手ブログ All About スタイルストア』 〔今年6月20日の「夏至祭」について。メイポールの写真を見ると、十字架の形に見えます 2008.6.21〕

五月祭『ドイツより愛を込めて=お気楽ドイツ生活=』〔5月1日祝日の「5月祭の日(Maitag マイターク)」と「五月柱(ドイツ語でMaibaum 英語でMaypole)」についてshampoo さんのブログ記事 2007.4.30〕 そして同じshampooさんによる今年の記事「マイバウム」 〔「思いを寄せる女性への愛の証として、女性の住む家の前などに男性がリボンの付いた木を立てて行ったりなんて事もするようです」という木なども含むさまざまな五月柱2008.5.1〕

ミッドサマァ~だよ。」 『フーテンのヴェラ』 〔ミッドサマー前日のスカンジナビアのフーテンのヴェラさんの2007.6.23 のブログ〕

五月の木と カスタニア 『ケルンだより その2』 〔「彼女に想いを寄せる男が、愛の証しに白樺の木を窓の下に立てて行ったんだわ。」 ドイツのケルンにお住まいだったtamayaMさんの2007.5.3 のブログ〕

   アメリカの人のブログで興味深かったのは、東部のメリーランド州滞在のMotokoさんの英語ノート "Today's word2" におさめられた "MAYPOLE" の記述です(2006.9.10)――

maypole


maypole [] 5月柱

昨日行った renaissance festival 16世紀のイギリスを再現するお祭りでしたが、そこで Maypole を初めて見ました。Maypoleは、リボンを用いたダンスに用いられ、柱のてっぺんから数十本の色鮮やかなリボンをたらし、そのリボンの端を持ちながら踊ってリボンを柱に巻き付けて素敵な模様を編むための柱です。Wikipedia によると、メイポールはゲルマン民族の祭りで、ドイツ、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、フィンランド、スウェーデン、イギリスで盛んだそうです。イギリス在住のヒロさんが書かれたブログ に、イギリスでのメイポール事情が詳しく出ていました。5月祭というお祭りで使われるようで、それが Maypole の名前の由来かと思われます。

興味深かったのは、ぐるりと巡ってファロスに戻ったからではもちろんなく、ルネサンス・フェアでメイポールが登場しているからです。

    さて、毎度断章的な文で恐縮ですけれど、最後に、やはり、新しい神話学解釈とかフェミニズム的神話解釈とかネオペイガニズム的解釈というのがどうであれ――そして、新しいものが目に留まることが、とくにWEBでは多いのかもしれないのですけれど、――やっぱ、ヨーロッパにおける樹木崇拝というからにはフレイザーだろう、ということで、有名な『金枝篇』を引いておきます(簡略本の第10章「近代ヨーロッパにおける樹木崇拝の残存」)――

Chapter 10. Relics of Tree Worship in Modern Europe

FROM THE FOREGOING review of the beneficent qualities commonly ascribed to tree-spirits, it is easy to understand why customs like the May-tree or May-pole have prevailed so widely and figured so prominently in the popular festivals of European peasants.  In spring or early summer or even on Midsummer Day, it was and still is in many parts of Europe the custom to go out to the woods, cut down a tree and bring it into the village, where it is set up amid general rejoicings; or the people cut branches in the woods, and fasten them on every house. The intention of these customs is to bring home to the village, and to each house, the blessings which the tree-spirit has in its power to bestow. Hence the custom in some places of planting a May-tree before every house, or of carrying the village May-tree from door to door, that every household may receive its share of the blessing. Out of the mass of evidence on this subject a few examples may be selected. 〔James George Frazer, The Golden Bough
(以上、木の精霊に共通して帰せられる善性について検討したことで、メイツリーとかメイポールなどの習慣がヨーロッパの農民の民衆的祝祭にきわめて広範に普及し、際立ったあらわれかたをしている理由を理解することが容易となる。春、または初夏、あるいはちょうど夏至の日に、ヨーロッパの多くの地域で、過去においても現在においても、森へ行き、切った木を村へ持ち帰り、皆で祝って立てるという習慣がある。あるいは人々は森の中で木の枝を切り、それを家々に結びとめる。こういう習慣の意図するところは、村に、そしてそれぞれの家に、樹木の精霊が与える祝福をもたらすことにある。だから、場所によってはメイツリーをすべての家に植えるとか、あるいは村のメイツリーをかついで家々をまわるとかして、すべての家が祝福にあずかれるようにする。この主題についての豊富な証拠からいくつかの例を選ぶことにしよう。)〔やっつけ訳です〕

  このように10章の冒頭で書いて、フレイザーは16世紀のイギリスのPhilip Stabbs Anatomy of Abuses (1585) 〔『悪習の解剖』と訳されるのかしら。性的な放縦を問題にしつつ、偶像idol とか異教徒heathen などキリスト教的な批判の語を連ねる〕など批判文書など歴史的な典拠も引きながら、詳述していくことになります。May-tree という言い方は、ドイツ語のMaibaum に相当するほうですね(バウムクーヘン Baumkuchen ―"tree cake"―のbaum)。

   問題は、古代にあった男根崇拝が意識的にあるいは無意識的に、五月祭と結び付けられることはあったし、今もあって、それをとりあえずモーリちゃんの父の関心としてはルネサンス・フェアなどの流行とどう関係づけるかづけないかなのですけれど、むつかしいので股、いや、またにします。

  あ、さらに最後にひとつだけ英語版がまだ見つからない自動翻訳と思われるヘンな日本語を断片的に引いておきます。これはWiccans という、魔女狩り以前の古代の魔女を現代によみがえらせようという、現代の魔女のひとりであるらしい女性のメッセージのようなのですが、とりあえず太字にしたところに注目して、他の猥雑ないし性的なところは無視してください(無理かもしれませんが)。――

にBeltaneの儀式-記事--を どのようにしなさいか

Beltaneは世界の連合そしてバランスを象徴するためにWiccansによって祝われる年次イベントである。それは通常5月に保持され、来年の豊饒そして新しい生命の祭典である。 ワード自体は「shining火」を意味する。これは日の時間の間に開かれる祝祭の1つである。

たくさんの年もの間、人々は北欧中そしておそらく異教徒が集まった土地でこの儀式を祝った。ばねの花は集められ、花で家を飾っている人々は村の通りを通って歩く。ホームの人々のほとんどはBeltaneの「トリックまたは御馳走」バージョンのために食糧を外へ残す。

この祭典は種まきのシードおよび新しい生命を作成することについて完全にある。この休日の最も重要な伝統の1つはMaypoleのそれである。 若者はもみ木を選択し、この機会のための棒を作る。 この棒は村の中心に置かれ、祭典の日まで密接に守られた。

1。 収集のための領域を選択し、besomとの清潔にしなさい

2。 不必要、歓迎されない精神ところで「安全なスペース」を作成するために円を入ることができない投げなさい。

3。 力およびエネルギーとの私達を助けるように適切な儀式に歌うことを用いる東、南、西および北を呼び出しなさい。

4。 女神を私達を結合するように誘い、私達の儀式を目撃し、そして私達を賛美しなさい。 女神は表す豊饒の女らしい面、膣(地球)を

5。 (神を)賛美するように誘いなさい。豊饒の男性の面であるシードを作り出すphallusを表す棒を聖別しなさい。

6。 穴は準備され、オイルおよびワインと聖別する。 歌いなさい: 母性的な女性は、かもしれない配偶者、私達の主のこの記号を"受け取るために準備することを提供するこれ

7。 人は歩き、歌い、Maypole、前に進むこと後方およびもの保持し2つのステップうなる騒音を作る。現在の女性は彼ら自身そして未来のための願いを作っている間申し出、棒のオイルを摩擦し。 彼らはまた棒のリボンを結ぶかもしれない。リボンのカラーはまた未来のための夢を示すかもしれない。〔8~11略〕

   これは上の「スコットランドの伝統行事・Beltane・五月祭」の扱うベルタンと魔女術とのつながりを教えるもののようですが、おもしろいのは、ケルトの火祭りが年に4回あって、10月31日から11月1日と4月30日から5月1日なわけですけれども、メイポールというからには、5月のほうの儀式で(も)「トリックまたは御馳走」つまりtrick or treat が出てくることですね。これはハロウィーンと同様のものだということ(解釈)を語っているのでしょう。それと、このわけのわからん日本語に対してあれこれ言ってもしょうがないけれど、こういうのが出てくる歴史的枠組みとしては、メイデーでいうと17世紀のピューリタンによる弾圧後に子供の春の祭りというかたちで見せかけの復活をした五月祭についてですが、一般にキリスト教によって意味を歪曲ないし抹消されてしまった古代から伝わる異教的な儀式の本来の意味を復興させる、ということでしょう。そのときに性的なものと同時に女性的なものの称揚が、こういういわゆるネオペイガニズムにくっついている(バーバラ・ウォーカーという人も、フェミニストともネオペイガンとも称される人です)のが興味深くはあります。

  わけのわからぬ話につきあっていただきありがとうございます。

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November 5 ラッキー・ペニー Lucky Penny [America]

November5, 2008 (Wednesday)

   エルセリート・プラザのショッピングモールのLucky でトニック・ウォーターやノンアルコールビール(初めて買った、12缶5.99ドルで安い)などを買ってから、Longs Drugs でビールを24缶買ったのだが、支払いのときにきっちり小銭を数えて出しているときに、アレッ、と思って、チェックスタンド(「May 22 チェックスタンド checkstand 」)に置きかけたのを財布に戻した硬貨がありました。家に帰ってからマジマジと見て調べてみたら、やっぱり古い1セント硬貨だった。――

penny (wheat ears).jpg

  右が現在の硬貨(裏面)です。

  「リンカーン・セント」 と呼ばれる、表面にリンカーンの右向きのプロフィールを入れた1セント硬貨は1909年から、それまで使用されていた「インディアン・ヘッド・セント("Indian Head cent" - wikipedia)に代わってつくられるようになったもので、戦争を経て、成分があれこれ試行錯誤されてアルミニウムなどの稀少な(実際は出回らなかっただけに)変種も存在するのですけれど、大きくは、1959年にリンカーン生誕150年のときにアメリカの首都のあるWashington, D. C.にあるリンカーン記念館を裏面に採用して、今日に至っています(写真右)。逆に言うと、1909年というのはリンカーン生誕100年の年でした。モーリちゃんの父がどっからかわからんけど手に入れたのは1953年鋳造の「麦穂 wheat」cent です。表の Victor D. Brennerがデザインしたリンカーンの肖像は同じで(よく見ると、リンカーンの右腕の下のところに、"VDB" (どうやらデザイナーのイニシャル)が今日のものには入っていますが、50年以上前には入っていなかったのではないか、という気がしますが、単にすりへっているだけかもしれませんw)、"Liberty" そして "In God We Trust"というモットーも同じ。裏面も、文字は同じです。すなわち、"One Cent"、 "United States of America"、そして、表の"In God We Trust" とならんでアメリカの建国以来のモットーとなったラテン語の "E pluribus unum" 「"Out of Many, One" 多から一、多様の中の統一」 が刻まれています。

  硬貨について蘊蓄(ウンチク)を傾けようかと思いましたが、日本語のウィキペディアの「リンカーン・セント」「1セント硬貨(アメリカ合衆国)」と、どうやら翻訳元の(でも画像リンクとか情報はちょっと多い)英語のウィキペディアの "Cent (United Statescoin)" など見ていただくと、あれこれ書かれ、また立派な画像もあります。

  だから個人的なことを書きますけれど、長らくなんでアメリカなのにペニーって呼ぶのだろう、と疑問だったのですが(まあ、植民地時代が長く、結果的に英国から独立したものの、逆にいえば、すでに当初から英語が中心となる国の定めで、そのまま引きずっているのかな、とか思っていた)、単純には、モノとしての1セント貨をペニーと呼ぶのですね、10セント硬貨をダイム、5セント硬貨をニッケルと呼ぶように。それで複数になってもペンスじゃなくてペニーズ(案外個人的には近年の知識w)。

  それで、店のレジでときどき店員から、「ペニーを持ってない?」と訊かれたりします。一般に欧米人は計算ができないから(きっちりじゃない場合にお札に添えて)小銭を出すのはタブーみたいに昔はいわれてましたけど、案外複雑な計算もOKみたい(もっともいまや半分以上は機械が計算しているわけでしょうが)。

  あと、9月の朝のニュースで、新しいペニーを造るようなことを言っていました。来年の2009年はちょうどリンカーン・セントが造られて100年、1959年にデザインの変更が行なわれて50年、第16代大統領エイブラハム・リンカーン(1809-65)生誕200年です。日本の1円玉同様に、鋳造の原価のほうが高くつくというのが1セント貨なのですが、どんなものになるのでしょう。たぶんリンカーンが変わることはないと思いますけれど。そして「我々は神を信ず」も「多様の中の統一」のモットーも変わらないと思いますけれど。

 

 


カリフォルニア時間6日午後8時追記―― 

 

☆"lucky penny" 「ラッキー・ペニー」の意味は、ウィキペディアのどこかの項目で書かれているように、一日の最初に手に入ったペニー硬貨をずっともっているとその日もたらされるというラッキー効果のことです。 

☆"Abraham Lincoln" - wikipedia <https://secure.wikimedia.org/wikipedia/en/wiki/Abraham_Lincoln>

426px-MtRushmore_Abe_close.jpg マウント・ラシュモアのリンカン大顔面

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November 19-20 メリーマウントのメイポール(五月柱) II――ルネサンス・フェアをめぐって (下のはじまり)  Renaissance Fair (6) [America]

November 19-20, 2008 (Wednesday-Thursday)

    もう、分類もタイトルもワヤです。「メイポールを巡って (4)」のような気もします。

  ここまでの流れをくわしく書いてもわけがわからんでしょうし、自分でもわからんのですが、いくらかでも簡単に整理しようと重い頭をちゃかぽこ叩いてみると、カリフォルニアのゴールドラッシュの愛唱歌ともなった「おおスザンナ」――この歌は白人が黒人に扮するミンストレルショーのためにつくられた、黒人が話者である歌――がカントリーミュージック&ラインダンスでジェンダー・フリーないしクロス・ジェンダー的なパフォーマンスをはらみつつ作者フォスターの北部どころか南部以上に西部的な装いをもったことの・・・・・・と書きながらズルして自分のタグクラウドを見たら、「おおスザンナまとめ1」というのがあったが、記事は「August 30 性と肉体的接触――ラインダンスとフォークダンス (4)  Gender and Physical Contact: Line Dances and Folk (4)」というのでした。そこでは「男性的なものであったウェスタンあるいはカウボーイを女がのっとること」とか書いてある。つながりが見えず・・・・・・どうやらその後「まとめ」がなかったようで(自傷的自笑)。ま、いきあたりばったりで書いていますんで。そのあと覚えているのはカエル・・・・・・ルネサンス・フェアがアメリカ的な事象であるとともに、とりわけカリフォルニアで、しかも五月祭を模したかたちで発生し、盛んなのはなぜか、というようなところから、話はヨーロッパ対アメリカというようなところに広がりつつ、American psyche というような・・・・・・、ひとつには性的なモノの抑圧と東西南北問題。ただ、そのときに性的というのが必ずしもフィジカルに性的なだけでなくて、女性原理と男性原理の対立というような意味での問題、とりわけ宗教における・・・・・・キリスト教とジェンダーの問題(アメリカに即していえばピューリタニズムと性の問題。歴史的には、17世紀に植民してきたピューリタンならびにその思想的影響を受けた「アメリカ人」の、ヨーロッパ的中世・ルネサンスに対するアンビヴァレントな姿勢、そして宗教的な抑圧が強いアメリカにおけるゴシック的・異教的・ルネサンス的なものの地下水脈的な力、みたいな。そして、えらくシンボリックにいえば、おおスザンナのダンスも含めて、性差の起源でもある聖なる場所たる中心、その象徴である世界軸、その典型であるメイポールに自分なりの話の基軸を置こうかなと(ぜんぜん置けてないっちゅうんや)。それにしても、なんにしても、そんなに簡単に答えが出せるような問題ではないということについては自信があります(半分開き直り)。

  で、思い出したようにアメリカのメイポールの歴史的なおはなし。テキストはナサニエル・ホーソーンの「メリーマウントのメイポール」("The Maypole of Merry Mount" (1836); 翌1837年の Twice-Told Tales 所収: E-text, University of Virginia Library)。

  知恵も付いたので、ヨーロッパとイギリスでの五月柱について書いておきます。ケルトとゲルマンの違いとか、ローマの男根崇拝に由来するかもしれない、という曖昧で意見の一致をみない事柄は捨象し、フレイザーの『金枝篇』のニュートラルな記述をかりれば、ヨーロッパの民衆の春または夏の祭(五月が多いけれど、スウェーデンなど北方では夏至の日)に広くあらわれる象徴として、五月木ないし五月柱があります。その祭は冬が去って夏のサイクルが訪れたことを祝うと同時に、樹木の精霊のもたらす豊穣の力に預かるための儀式であって、一種の樹木崇拝の様相を帯びることになります。古くから見られたふるまいとしては、森へ入って行き、切った木を村へ持ち帰り、皆で祝って立てて祭る、あるいは森の中で切った木の枝を各自の戸口や窓に結びとめる。さらに、そういう習慣から派生した習慣として(これは大陸のほうに見られるようですが)、恋人が森からとってきた若木の枝を意中のひとに贈るとか、若木(苗)をプレゼントするとかが、今日も行なわれています。

  けれどもこの「樹木崇拝」をキリスト教会は偶像崇拝と見ますから、中世に禁止が起こります。しかし、農民の大切な祝祭としてあったわけで、大陸の方ではおおざっぱにいうとキリスト教的ないろづけをされるかたちで容認され、季節はちがいますが、典型的にはクリスマスツリーのようなかたちでキリスト教会内に入るようになる(季節はちがいますけれども、もともとの新たな宇宙のサイクルを祝う意味は、サンタの赤い服――つまり太陽をあらわす――や、飾り付けを行なうツリーそのものに残されています。

  イギリスでは、五月柱はしだいに固定化され、常駐化して、16世紀にはコミュニティー(地域の縄張り)の象徴という意味をもったようです。村同士で五月柱を盗みあうとかもあったようです("Maypole dance" - Wikipedia: In the 16th century maypoles were communal symbols, being erected as group activities by a parish (or by several parishes in concert if they did not have the means to do so individually). They were often the focus of rivalries between villages, who would steal one another's poles. (In Hertfordshire in 1602 and in Warwickshire in 1639 such thefts led to violence.) Owners of woods and forests (such as the Earl of Huntingdon in 1603 who was furious to discover that his estates had been the source of the maypoles used in Leicester) were also the victims of theft, as it was often the case that they were not consulted about the use of their timber.[1]

  そしてプロテスタントは偶像崇拝を嫌悪しますから(だってローマン・カトリックの英国人がしばしば偶像崇拝の嫌疑で告発されたりしましたからね)、あらためてこの異教的な祝祭が問題視されることになります。WEBに落ちているバーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』の幽霊〔反・ギリシア神話:男根崇拝(Phallus Worship)」〕によれば、「スタブズは1583年に、一般の人々が踊りながら、メイポールに花輪をかける様子を描写している。彼はメイポールを「卑しむべき偶像」と呼んだ[註10]。古代ローマの女性たちは、「蒔いた種を実らせるために」、神リーベルの勃起したペニスに花輪をかけるのを常とした、と聖アウグスティヌスは述べている[註11]。」ということです。このスタッブズの文章はフレイザーが『金枝篇』で引いた有名な文献です。このへん、アメリカの17世紀のメイポールを考える参考になるので、簡略版第1巻10章から引用しておきます。――

      The puritanical writer Phillip Stubbes in his Anatomie of Abuses, first published at London in 1583, has described with manifest disgust how they used to bring in the May-pole in the days of good Queen Bess.  His description affords us a vivid glimpse of merry England in the olden time.  Against May, Whitsonday, or other time, all the yung men and maides, olde men and wives, run gadding over night to the woods, groves, hils, and mountains, where they spend all the night in plesant pastimes; and in the morning they return, bringing with them birch and branches of trees, to deck their assemblies withall.  And no mervaile, for there is a great Lord present amongst them, as superintendent and Lord over their pastimes and sportes, namely, Sathan, prince of hel.  But the chiefest jewel they bring from thence is their May-pole, which they bring home with great veneration, as thus.  They have twentie or fortie yoke of oxen, every oxe having a sweet nose-gay of flouers placed on the tip of his hornes, and these oxen drawe home this May-pole (this stinkyng ydol, rather), which is covered all over with floures and hearbs, bound round about with strings, from the top to the bottome, and sometime painted with variable colours, with two or three hundred men, women and
children following it with great devotion.  And thus beeing reared up, with handkercheefs and flags hovering on the top, they straw the ground rounde about, binde green boughes about it, set up sommer haules, bowers, and arbors hard by it.  And then fall they to daunce about it, like as the heathen people did at the dedication of the Idols, whereof this is a perfect pattern, or rather the thing itself. I have heard it credibly reported (and that viva voce) by men of great gravitie and reputation, that of fortie, threescore, or a hundred maides going to the wood over night, there have scaresly the third part of them returned home againe undefiled.

   ピューリタンの著述家フィリップ・スタッブズは、1583年に最初刊行された『悪癖の解剖』のなかで、(エリザ)ベス女王の時代にメイポールが人々に運び込まれるさまを、あからさまな嫌悪をもって記述している。スタッブズの記述は、古の陽気なイングランドへの鮮明な一瞥を我々に与えてくれる。五月、ペンテコステ、その他の時期に、若い男、乙女、年取った男、人妻、すべての者たちが夜を徹して、森や林や丘や山を遊び歩き、そこで楽しく打ちそろって夜を明かす。そして朝になると、樺その他の樹の枝をたずさえて、集会の場を飾るために帰ってくる。ところで彼らの中には、その楽しみと遊びの支配者および王としての大神が、すなわち地獄の王たるサタンがいる。彼らが持ち帰る主な宝は『五月の棒』であって、非常な尊崇の心をもって遊ばれるのである。彼らは二十くびきまたは四十くびきの牡牛を伴い、その牡牛の角の先には芳香を放つ花束をつけ、これにかの『五月の棒』(というかこの鼻持ちならない偶像)を引かせるのである。ところでこの棒たるや、花と葉で覆いつくされ、てっぺんから根もとまで紐でぐるぐる巻かれ、時としては色とりどりに塗りたくってあって、それには二、三百人の老若男女がいとも敬虔そうにつき従うのである。それからハンカチとか旗などをそのてっぺんからひるがえし、棒を地面にたてて、周囲にわらを撤きちらし、縁の小枝を沢山結び付けて附近にあずまやや亭(ちん)などを建てる。こうして一同がそれを取り巻いて騒々しく踊るのであるが、このさまは偶像奉献の際の異教徒たちに似ており、全くその様式どおり、あるいはむしろそのままでと言った方がよい。きわめてまじめで信用できる人の確かな報告によれば(また直接聞いたところによれば)森林で夜明かしをする四十人、六十人、あるいは百人にものぼる乙女たちのうち、元のままの清い身体で戻って来るのは、せいぜい三分の一くらいなものだという。

  (訳は「祝祭とマスヒステリア」に引用されている岩波文庫訳を少し字句の変更と追加をして利用させていただきました)。バーバラ・ウォーカーはスタッブズが "stynking ydol" (古い英語なので綴りが現在とちがいますが、stinking idol 臭い偶像)と呼んだメイポールを男根崇拝ととらえ、ペニスに輪をかける古代の祭儀につながりを見ようとするわけですが、読んでいただけばわかるように、スタッブズは性的な放縦をメイデーの祭に見ているとはいえ、メイポール自体をペニスに見立てているようすはまったくありません(「亭(ちん)などを建てる」という翻訳はアヤシイですがw)。

  長~いエリザベス女王の御代(1553-1603) の前の短いエドワード6世の時代(1547-53) にいわゆるReformation が起こって、偶像崇拝への攻撃が教会側から起こるのです。ちょっと挿話的事実を引けば、ロンドンのシティーにあるSt Andrew Undershaft 教会の名は、毎年春に教会内で建てられたメイポールに由来するのだそうです。1517年に暴動が起こって行事は終わりますが、1547年までメイポールは残っていたそうです。それをピューリタンの一団が "pagan idol" として破壊したのだそうです(これは "Maypole dance" - Wikipediaによる―"The church of St Andrew Undershaft in the City of London is named after the maypole that was kept under its eaves and set up each spring until 1517 when student riots put an end to the custom. The maypole itself survived until 1547 when a Puritan mob seized and destroyed it as a "pagan idol.")。エリザベス女王自身はメイデーの祭を好んでいたとも言われ、とにかく国と教会が一緒になって問題視するということにはならなかったのですが、その後、世界史で習うように宗教と国と王権と政治とが複雑な関係を示して、その流れからピューリタンの過激派の分離派がイギリスを棄ててオランダ経由でアメリカに新しい宗教的な場を求めるという展開になるわけです。その流れのなかで、五月祭がおかみによって禁止されたり、そのことによってメイポールが民衆にとって反体制の象徴みたいなものになったりもしていく(というのは現代の学者の意見だが)。ともあれ、ピューリタンにとって偶像メイポールの生み出す空間というのは、遊びや飲酒にふけって安息日を守らないこととか、男女の風紀が乱れる(とりあえず男女が一緒の踊りというレヴェルでもそうなわけです)とか、批難されるべきものとしてありました。

WalterCrane1894theworkersmaypole.jpg

 (再掲) Walter Crane, The Workers' Maypole (1894)

  さて、少し先走って、その後のイギリスのメイポールについてメモっておくと、今日とくにイギリスの田舎で見られるような、少女たちが、あるいは少女と少年のグループが、色とりどりのリボンを踊りながら巻きつけていく、というタイプのメイポールは、19世紀になってあらわれたようです――ウィキペディアの"Maypole"の記述を引けば、"The addition of intertwining ribbons seems to have been influenced by a combination of 19th century theatrical fashion and visionary individuals such as John Ruskin in the 19th century."  まあ、推測として書かれておるのですが、リボンを巻き付けるのは19世紀の演劇的な流行とジョン・ラスキンみたいなひとたちの影響があったんじゃないかと。で、そういうタイプの新しいメイポールのダンスが、19世紀末のアメリカでとりいれられ、とくに学校で演じられる。が、それも第二次大戦後にやがて弱まる。がそれが、あるいはそういう関心がはらんでいる心情がもしかするとルネサンスフェアというような新しい装いであらわれたかもしれない〈最後はとくに個人的憶測です)。

  ウィキペディアの"Maypole dance" のほうの記事は、豊穣の祝祭のダンス(それがどんなものであったにせよ)ではなくて今日のようなダンスは、イタリアやフランスにあった「アート」ダンスの影響を受けて18世紀に起こったと言っています。それがロンドンの劇場の舞台にのぼり、それから一般化したと。つまり教師が学んで、それを学校で広めたのであって、「リボン・メイポール・ダンス」はイングランド中部と南部で普及してこんにち「伝統的」なメイデーの特色となっている。―― "The second kind of maypole dancing originates in the 18th century, derived from traditional and 'art' dance forms popular in Italy and France. These were exported to the London stage and reached a large audience, becoming part of the popular performance repertoire. Adopted at a large teacher training institution, the ribbon maypole dance then spread across most of central and southern England and is now regarded as the most 'traditional' of May Day's traditional characteristics." (このへん、「おおスザンナ」のフランス、スペインのダンスとメイデーのダンス(リボン系じゃないやつ)の類似が思い出されて興味深いのですが――「October 30 おおスザンナのお遊戯の中心にポールは立っているか Is There an Imaginary Axis at the Center of Oh! Susanna Child-Dances? 」参照)

  たぶん、両者にソゴはないのかもしれません。ちなみに、リボン・ダンスは大陸のほうでも見られます。

   ちょっと疲れてきたので、読みやすいひと(他人)の文章を参照しましょう。『スポーツ文化資料情報館』 <http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html> という、元奈良女子大の先生で現在新潟医療福祉大学におられる小田切毅一というひとが館主の館があります。「案内板」(クリック注意)によれば、「史料情報室」 は・・・・・・「主に身体や運動によって特徴づけられるスポーツ関連諸事象に触れ」るもので、「連載アメリカスポーツ歴史物語」は、「植民地時代から20世紀へと及ぶ、古き良き時代のアメリカのスポーツ発展を跡づける文化史」である、ということですが、そのたぶん後者にあた植民地社会の建設とスポーツ事情」の最初のあたりで、アメリカのスポーツ史の発端、植民地時代のスポーツ否定の問題が挿絵入りで書かれています。

  よく言われるように、ピューリタンは娯楽を禁じました。「ところで北部植民地を中心に強調されるピューリタニズムによるスポーツや娯楽の否定の問題は,ある意味ではメイフラワー号の航海に象徴されるアメリカの出発,さらに自由な新天地としてのアメリカの歴史観とも同調するものであり,その後のアメリカ人のスポーツの受け止め方にも無視できない影響をおよぼした。こうした意味でスポーツの文化史の,まさに出発にかかわる問題として位置づけることができる。」というのが第3節の「ピューリタニズムによるスポーツ否定の問題」の書き出しです。近づいているサンクスギビングデーとも関係することですけれど、1607年にすでに南方ヴァージニア植民地はできていたのに、1620年のプリマス植民地のいわゆる「ピルグリム・ファーザーズ」、つまりより宗教的な一団(と位置づけられるひとびとを中心とすると想定される集団)を、その後のアメリカ合衆国という国は、歴史的に父祖の地位につけたわけです。で、この北部では、厳格なピューリタンの思想がながらく政教一致のTheocracy 神権政治というかたちでひとびとを律したわけでした。「禁欲的生活を旨とし,何よりも彼等の宗教的な自由を貫ぬこうとしたピューリタン(清教徒)にとっては,スポーツに興ずることは異教徒的行為であった。」として、館長は書きます。――

 「飲めよ,そして陽気に陽気に陽気に少年達よ。すべての君達の喜びは,ハイメンの女神(ギリシャ神話で,婚姻の女神)の喜びぞ。女神への歓喜の,今やその日が来た。メイポールのまわりに席をとれ8*。」8) F. R. Dulles; A History of Recreation. p.30.

  J.ウィンスロップをリーダーに,1630年にプリマスから分かれて創設されたマサチューセッツ湾植民地は,それ以後にニューイングランドの植民地の中心となった。こうした出来事が生じた3年前の1627年には,メリーマウントでメイポール建てて,その周囲で開放的な派手なドンチャン騒ぎを演じたT.モートンが,異教徒的な偶像崇拝をきらう近隣の清教徒の激怒に合い,投獄のうき目に合った。

  N.ホーソンは1837年に刊行の Twice-Told Tales の中で, この歴史上の出来事を「メリーマウントのメイポール」という短編の寓話に仕立てている。「メイポールがあの陽気な植民地の権標だった当時は、まさに光り輝くものだった。メイポールを建てる者は、旗を揚々と掲げるように気を配り,花の種を撒くことになっていた。浮かれ騒ぎと憂鬱とが、植民地の覇権を争っていたのである。」

  この寓話で、メイポールを崇拝する集団が行った浮かれ騒ぎ(仮面劇の儀式)は、むしろ史実に反してバッカス祭司による異教徒のそれとして描かれていたと指摘される。こうした仮面劇や, そこに登場する古い時代の情景については,ホーソン自身がその前書きで触れているように,「作品の舞台に豊かな奥行きをあたえるために」,ストラッツによる『イギリス国民のスポーツと娯楽』(1801年)が典拠とされていた。この寓話が史実と異なる最も重要な点は最終部分である。史実のような「投獄」ではなく、この寓話では,結婚しようとしていたメイポールの王と女王は、「苦難な道を天国へ向けて支えあう」ことで, 罪を許されていたことである。 

  ううむ。ひとのことは言えませんが、わかりづらいです(か)ね。最初の段落の、誰の言葉か明確にされていない引用は、つぎの段落で名前の出るThomas Morton (c1576-1647) の詩の孫引きだと思われます。モートンはイギリスのデヴォンシャーの生まれで、法律を学びにロンドンに出て劇作家のベン・ジョンソンの友人となった、ちょっと文人肌の人でした。デヴォンは田舎で、固陋な英国教会派で、プロテスタントたちからは辺鄙な土地とみられていたところ("Thomas Morton" - Wikipedia)。モートンは法律の仕事の関係で、新大陸の植民地にかかわることとなり、1622年についで1624年の航海のときにはCaptain Wollaston と組み、30人の丁稚を率いてアルゴンキン族インディアンの土地を借りて貿易をします。そのときに毛皮と引き換えにライフルや酒をインディアンに渡す。それをピューリタンたちから咎められる。モートン自身は、不寛容な白人に比べて、インディアンの博愛的な態度に感銘を受けた、ということです。やがて貿易業が拡大して、マウント・ウラストン Mount Wollaston と呼ばれる農業コロニーができます。

  ウラストンが丁稚さんたちをヴァージニアのタバコ農園へ「奴隷」として売っていたことを知り、 モートンは離反する。残っていた丁稚さんたちと一緒にウラストンに対して謀反を起こします。ウラストンはヴァージニアへ逃げてゆく。残ったモートンは、Mount Wollaston の名をMa-re Mount (海mare とmerryのかけ言葉だとされています) と変え、ユートピア的な、階級差別のない、コミュニティーをつくることを考えます。そしてアルゴンキン族とのある種の文化的融合も試みられる。モートンは、インディアンたちを定住させて、リベラルなかたちのキリスト教に改宗させようと考えていたようですが、ピューリタンたちは、モートンのふるまいを異教的なものと見て問題視します。とりわけメイポールをめぐるスキャンダラスな噂が流布される。バッカスとアフロディーテを崇める祭を行ない、酒を飲んでインディアンたちと性交に耽っているとか、なんたらかんたら。

  ピューリタンの植民地総督William Bradford は有名な『プリマス植民地』で、スタッブズとちょっと似たトーンで批難しています。――

They [. . .] set up a May-pole, drinking and dancing about it many days together, inviting the Indian women, for their consorts, dancing and frisking together (like so many fairies, or furies rather) and worse practices.  As if they had anew revived & celebrated the feasts of ye Roman Goddess Flora, or ye beastly practices of ye mad Bacchanalians."
彼らは五月柱を立てて、一緒に何日にもわたってそのまわりで飲んだり踊ったりするのだが、インディアンの女たちを相手として招いて、一緒に踊り、跳ねまわり(たくさんの妖精fairiesのように、というか怨霊 furiesのように)、そしてさらに邪悪なふるまいをする。あたかもローマの女神フローラの祭を、あるいは狂ったバッカスの従者たちの獣のようなふるまいを、復活させて祝っているかのようだ。

  館長は史実と違うと言っているけれど、ピューリタンたちの風説では、(そしてすぐ下に引くようにモートン自身の記述でも実は、)古代のバッカスやヴィーナスやらをほうふつとさせる異教的な装いがあったようです。それは、しかし、イングランドのメイデーの祝祭を新大陸に移し、モートンの自由思想によって味付けされたものでした。

  1628年の2度目のメイデーの祭では80フィートのメイポールが立てられます。そしてモートン自身が、館長の引くフレーズに始まる詩を捧げて、皆で歌い踊ったらしい。モートン自身による記述 A New English Canaan (Amsterdam, 1637)に引かれている詩 ――

The Songe

Drinke and be merry, merry, merry boyes,
Let all your delight be in Hymens joyes,
Iô to Hymen now the day is
come,
About the merry Maypole take a Roome.

Make greene garlands, bring bottles out;
And fill
sweet Nectar, freely about,
Uncover thy head, and feare no
harm,
For hers good liquor to keepe it warme.

Then drinke and be merry, &c.
Iô to Hymen, &c.

Nectar is a thing assign'd,
By the Deities owne minde,
To cure the hart opprest with grief,
And of good liquors is
the chief,

Then drinke, &c.
Iô to Hymen, &c
.

Give to the Mellancolly man,
A cup or two of't now and than;
This physick' will soone revive his bloud,
And make him be of a merrier mood.

Then drinke, &c.
Iô to Hymen, &c
.

Give to the Nymphe thats free from scorne,
No Irish; stuff nor Scotch over worn,
Lasses in beaver coats come away,
Ye shall be welcome to us night and day.

Then drinke, &c.
Iô to Hymen, &c
. 〔<http://www.swarthmore.edu/SocSci/bdorsey1/41docs/19-mor.html> 一部英語を現代化しているもの。ひまができたら訳します。今日のところは原文だけでかんべんしてください〕

   そして、ピューリタンたちがメイポールを切り倒して、モートンを逮捕・投獄するという事件が、翌6月に起こります(このへんはホーソーンは時期をずらしているというかあわせているのですが、興味深いのは、"midsummer eve" つまり夏至の日の夕方に時を設定し、メイポールの祭の日にジョン・エンディコット―ジョン・ウィンスロップの前の総督―率いるピューリタンたちがやってくるようにしたことです)。館長は、史実のように投獄ではなく、と書いていますが、もともとモートンはホーソーンの小説の主人公にはなっていません。他の参加者はムチ打たれるのですが、新婚ということでエンディコットから鞭打ちを免除され、しかし男のほうは"pumpkin shell" 型に頭髪を切ることを命じられる(どういう髪型でしょ)。そして、五月の王と王妃たる若い男女は、ふたり手をたずさえて、このメリーマウントから去ってゆく、という結末の一文 ("They went heavenward, supporting each other along the difficult path which it was their lot to tread, and never wasted one regretful thought on the vanities of Merry Mount.")は、誰が最初に指摘したのか知りませんが、ミルトンの『失楽園』の最後のBook X の最後で、アダムとイヴが楽園を追われていくときの文章のエコーがあるんだそうです。

  そうすると、文化人類学的にはけっこう普遍的にみられる、パラダイスの中心に立っている宇宙木、世界樹が断ち切られて、「人間の条件」へ失墜する、という神話(と言うのが罰あたりなら、キリスト教の失楽園の物語)をパロディーであれ、なぞっている部分があるということになるわけです。

  とりあえずのばしのばしにしていた「メリーマウントのメイポール」のおはなしに一段落つけておきます。結果的にわかりにくい文章になっているかもしれませんが、だいぶ神経と脳味噌を費やして疲れました。

  では今日はこのへんで。あとでか、次回にか、参考文献とか追加します。

merrymountlovers-illustr-MerryMountMaypole.jpg

ホーソーンの物語の古い挿絵

 

ブログ村 洋書・洋楽・映画の英語

  2009年1月5日追記   いちおう、「November 6, 25 スートロのメイポール――ルネサンス・フェアをめぐって(下の2) Maypole Dance at the Sutro Baths (1897): Renaissance Fair (7) 」につづきます。また、余談的に「November 26 メリーマウントのメイポールの挿絵について An Illustration of "The Maypole of Merry Mount"」を書きました。


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March 15 八百屋さん前の古本市、そして、ひまわり (2) [America]

March 15, 2008 (Sunday)

   実はいまカリフォルニア時間は3月14日(土)午前7時25分になったところです。未来日記を書こうとしているのではなく、明日の古本市の告知がひとつ、そして、もうカリフォルニア時間も残すところ1か月となり、そろそろ帰り支度と同時にブログを片付ける(つうか、よくいえば、形をつけるw)ことを考えつつ書き残したことの補足やまちがったことの訂正やら(これがヤバい)をしようと思っている今日この頃なのです。で、「June 17 ひまわり (1)」の続きらしいものも書いておこうと思いました。

  以上まえおき。

    まず告知です。エルセリート市のサンパブロ・アヴェニュー10566のYaoya-San 前で毎月第3日曜日に開催される古本市が3月15日に開かれます(雨天中止)。午前11時~午後3時。

  ブログには書かなかったけれど、11月には行きました。12月は休みでした。1月と2月は行きそびれました。なつかしい写真を1枚載せておきます(昨年の6月に最初に行ったときの)。

1844317

  右の奥が八百屋さんで、手前はIchiban Kan です。八百屋さんの前でベイエリアの日系移民団体のひまわり会の主催で20年以上前に始まって継続しているので、壱番館の前や、八百屋のむこうの何屋さんだったかしら、クリーニング屋?の前まで箱や棚が進出していても「八百屋さん前の古本市」です。文庫やペーパーバックが1ドル、ハードカバーは2ドル。他にビデオやCDやDVDもあり。

  さて、さっきひさしぶりに、ひまわり会のページ「ひまわり会-NPO since 1971」 <http://himawarikai.org/topics.cgi>(なんかタイトルが変わったような)を見たら、古本市の告知の下に、新年初頭の記事として、「メルティングポットからサラダへ」と題する長い文章が載っていました。ひまわり会がつくられた1970年代は、メルティングポット、「様々の食材をごっちゃ混ぜしてスープみたいな一品料理を作る様にアメリカに住む色々の人種や民族を出来るだけ混ぜ合わせて同化し一色のアメリカを作る事が奨励され」た時代だった。「日本から来た私達も一日も早く良いアメリカ人となる為の努力をしました。バイリンガル教育はあまり盛んでなく英語をしっかり話す子供を育てる事に夢中でした。」 そしてその後、数十年のあいだに時代は変化して、サラダの時代に変わった。「色々の食材を混ぜてシチューのような一品料理を作るのではなく 赤いトマトと緑のきゅうり、とそれぞれの素材の色と味を保ちながら盛り合わせて美しいサラダを作る、つまりそれぞれの人種や民族の文化を維持し、尊重し合って一つのアメリカを築く事を強調する時代に変りました。オバマ大統領はまさにサラダの主役です。」 こんなふうに、新しい大統領による新しい変化にも触れますが、日本人の立場がむしろ小さくなってきたことを問題にして、会としての抱負を語っているよい文章です(ぜひ読んでください)。

  これを読んで、「ひまわり (1)」の記事のあとに書こうと思って書かずにいたことを思い出して書こうと思いました。

  どこかの記事にちょっとだけ触れましたが、 "International Institute" という、それだけだとなんの組織かわからないような名前で呼ばれている組織がアメリカのあちこちにあります。ベイエリアにあるのが "International Institute of the Bay Area" (HP: <http://www.iisf.org/>)です。IIBA というのが略称です。これはInternational Institute of San Francisco と International Institute of the East Bay (IIEB) が統合されたもののようです。去年の夏前にはホームページはまだ分かれていたと思うのですが、いまはサンフランシスコのほうのブックマークをクリックするとIIBA のこのページにとびます。

  最初の International Institute を1910年にニューヨーク市に設立したのが Edith Terry Bremer (1885 - 1964) という女の人でした。そしてYWCA をプッシュしてグリニッジ・ヴィレッジに教育センターをつくらせ、英語の授業やリクリエーションを行なう。このひとの項目は英語のWikipedia にもなく、自分が書こうかと思ったのかしら。よく覚えていませんが、なんでも調べたことを書いていたころだったのかも(w)。いまウィキペディアを再確認すると、彼女の名前は "YWCA USA" という項目には出てきており、かつ、自分があれこれ言おうと思っていたことも書かれていたので、それを引いてケリをつけます。

Edith Bremer was another influential woman who did not agree with the original constraints of the YWCA ideologies.  She denied support of the Christian moral uplift, character building, and assimilation of newly arrived immigrants at Ellis Island.  Bremer was one of the few who strived for cultural pluralism in the 1920s.
  
(YWCA の当初のイデオロギー的な拘束に同意しなかったもうひとりの影響力ある女性はEdith Bremer だった。彼女はキリスト教倫理高揚による精神的支え、(キリスト教倫理による)人格形成、エリス島に新たに到着した移民たちの同化を拒否した〔英語よくわからず。英語が悪いw〕。ブレマーは1920年代に文化的多元主義のために戦った少数者のひとりだった。)

  この、International Institute の運動をすすめたイーディス・ブレマーという人は、YWCA という、本来宗教性が高く、白人の中産階級的女性キリスト教倫理を普遍化する姿勢をもっていた組織のイデオロギーにぶつかるかたちでアメリカ女性移民を援助しようとしたのでした。ひまわり会の新年の記事で言うと、サラダ的な多様性、同化しきれないアイデンティティーをむしろ積極的に認めようとした。で、YWCA 自体の姿勢もいまはそういうところがありますよね・・・・・・ありますか? 少なくとも大学のそばにあるYWCA はそうですよね。

YWCA_In_Service_for_the_Girls_of_the_World_-_Poster%2C_1919_s58d_5.jpg
Neysa Moran McMein (1888-1949) 'Y.W.C.A. In Service for the Girls of the World', Poster, 1919 <http://en.wikipedia.org/wiki/YWCA_USA>

  あ、でももうひとつ書こうと思っていたことを思い出しました。「December 10 「ジャパニーズ・ソープ」といってもソープオペラでもソープランドでもないのか Japanese Soap, Not Japanese Soap Opera Nor Japanese Soap House」でふれた排日移民法の問題でした。

  ということで(どういうことだかよくわかりませんが)、たった1年だけ居住しているモーリちゃんの父たちにはとてもわからないさまざまな思いや夢や悩みがこの時空間には存在してきたということに思いをいたし。それは古本という、時間の流れをどうしようもなく内包しているモノを手に取るときに生じる思いとつながり。

カリフォルニア時間3月15日12時追記
残念ながら、今日の古本市は雨のため中止になりました。11時前には雨があがったのですが、朝から10時ごろまで断続的に降っていたのと、朝の天気予報が「ときどきにわか雨」だったし、ひまわり会のボランティアの人たちはクルマで運んでくるので、早い段階で中止が決まったのだと思います。


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